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03/14のツイートまとめ

afterfinitude01

書き始めの30分くらいはドビュッシーを流していたんだけど、どうやら私は一定の緊張(ストレス)を伴うメロディーの方が書く上ではかどり易いらしく、モートン・フェルドマンにしたり、でもこれは逆に暗すぎるということで結局ベルクに今日はお世話になりました。
03-14 22:23

休日二日目、今日は雨なので大人しく部屋にひきこもってひたすら書いていた。もうさすがに精神力が持たずにさっきギブアップしたけど、これで原稿は遂に目標の50枚を越えた。ずっとアルバン・ベルクを流していた。
03-14 22:13

異なる自然法則が成立すること、つまりメイヤスーの言うエクストロ・サイエンスフィクションの世界が当たり前のように成立する。常に別様であるのはコギトだけでなく宇宙も含まれる。こういう宇宙の多数性は定常宇宙論として一般化されているインフレーション理論からも支持されているようだ。
03-14 15:29

超弦理論の大栗博司が示しているカラビ=ヤオ空間と膜宇宙のモデル図のサンプル。私たちの宇宙はこの圧倒的な空間の隅っこに張り付いた膜として広がっている。メイヤスーの事実論性の原理との接点の一つは、ある膜宇宙AとBでは互いに物理定数の https://t.co/VMVrCjETOs
03-14 15:23

現在、最新の宇宙論として注目されている超弦理論では私たちの宇宙はこういう形態で表現されるカラビ=ヤオ空間(11次元)の端に膜状に並んでいて、ビッグバンが始まったのは隣の膜宇宙と接触したからだとされる。 https://t.co/1sv2Udxjvd
03-14 15:16

そこで私は『有限性の後で』を読了後、ガブリエルの批判を意識しつつメイヤスーが間違いなく影響を受けているであろう理論物理学、特にインフレーション宇宙論から超弦理論にまで至る科学の流れと「事実論性の原理」の関係性を探り始めて、この点について具体化していきたいと思っている。
03-14 15:09

科学(数学)の共犯は成立しない。むしろデカルトがガリレイ=コペルニク的な原理を哲学に摂取して革命を起こしたように、哲学は再び数学から世界を読み解く力を獲得し、相関的循環なしの思弁的な道を復活させるべきである、とするのがメイヤスーの立場。(要するに彼は数学に片想いしてる?)
03-14 14:59

状況においても成立しているという意味での科学的な実在であって、これは人間の意識とは無関係に存在していなければならない(そうでなければ誰もがプトレマイオス的反転に陥る)。科学が用いる数学は物自体という概念を打ち破ってこの科学的な実在にまでアクセス可能であると認めた時、ここに哲学と
03-14 14:54

祖先以前性の問題系はこういう議論において活性化すると思う。もしも全てが自我の産物ならば地球誕生時についての基礎科学的な記述も自我の産物に過ぎない。この場合、「記述」は人間の発明だが記述が指し示す物質的な実在は科学によって客観化される必要がある。この場合の客観化とは人間不在の
03-14 14:47

バディウやメイヤスーは思考の相関に還元し得ないものとして数学を示唆するが、この数学的実在そのものも超越論的主観性によって構成されている限り「意味論的統合失調症」(ガブリエル,p64)を回避不可能である、と考えることもできるけれど、これについてはメイヤスーも予防策を立てていたはず。
03-14 14:29



内島さんが引用されているシェリングの問題は、物自体にそもそもアプローチ可能なのかの根源的な考察として極めて重要。そしてこれはシェリングを復活させるガブリエルの戦略(その延長上にメイヤスー批判がある)でもある。
03-14 14:10

RT @sumire07211: そして自己意識が自我の周囲に描いた魔法陣のなかに閉じ込められているかぎり、自我はこの無知状態にとどまらざるをえない。この魔法陣を開く哲学者のみがこの幻想の背後にまで到達することができるのである。(シェリング『超越論的観念論の体系』)
03-14 14:07

RT @sumire07211: ただしこの成立した事物のほうは存続するのに、この事物がそれによって成立したところのその当の行為のほうは存続しない。したがって自我は、〈みずからに対立している事象〉すべてがみずからの生産物であるということを根源的に知らないままである。
03-14 14:07

RT @sumire07211: 事物それ自体を実在的とみなす独断論者は、現時点における自我の立場と同じ立場に立っている。つまり事物それ自体は、〔自我が〕〈行為する〉ということによって、自我から成立するのであるが、
03-14 14:07

RT @sumire07211: 事物それ自体は、理念的な活動の影、すでに限定を越えている活動の影―直観をつうじて自我の面前に送り返されるところの影―にほかならない。そしてそのかぎりで、この影はそれ自体が自我の生産物である。
03-14 14:06

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