† ジャック・デリダ †

ミシェル・アンリ『受肉―肉の哲学―』

受肉 肉の哲学 叢書ウニベルシタス 868受肉 肉の哲学 叢書ウニベルシタス 868
(2007/07/03)
ミシェル アンリ

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「あらゆる肉が生ずるのは、〈言〉からなのである」(p424)

本書は、キリスト教神学と現象学双方を学ぶ者には、「必読」である。
というより、私はこの本に関する仔細なレジュメを既にリアルで残しているので、ブログではいつものように軽く紹介するに留めておこう。

本書は、デリダ的なユダヤ系列の現象学に対する宣戦布告である。
デリダが「発生」の起源を「不在」において把捉するなら、アンリは「発生」の起源を「内在性」において把捉するからだ。
双方ともに「ポスト・フッサール」の代表的な世界的哲学者であるが、立場が全く逆である。
換言すれば、デリダは世界の起源には「廃墟」が到来する、と述べている。
それは起源の不在、主体性の不可能性、他なるものへの超越、原-痕跡である。
対して、アンリは世界の起源には「ロゴス」があると確信する。
ロゴスとは、全能の父なる神の「言」である。
この「言」が受肉すれば、イエズス・クリストとなる。
したがって、2007年という比較的最近にようやく邦訳され始めた本書は、「現象学とキリスト教神学の夢の饗宴」に他ならない。
アンリは本書において、「受肉」の概念を先鋭化させる。

我々のこの身体とは、単なる物質的な肉であろうか?
アンリは、セックスにおいて男女の肉が「合一」することが可能か?という肉の現象学の最もセンセーショナルな問いへもメスを入れる。
結論からいうと、アンリはセックスで互いの肉が「合一」することはあっても、そこで魂までもが相互に「結合」する次元にまでは到達しないと述べる。
アンリは「肉」の概念の「暗い側面」にも目を配る。
ポルノグラフィーだ。
ポルノグラフィーとは、肉の二次的な表象である。
ポルノにおいては、対象となる女性の裸体は、アンリの概念を応用すると、「未だ着衣」している。
何故か?
ポルノとは本質的に、「裸性」という「着衣」であるからだ。
ポルノスターは間違いなく「脱ぐ」という行為において画一化・スタイル化している。
それは新しい「衣服」である。
だとすれば、ポルノスターが「裸性という名の衣服」を脱ぎさった瞬間(すなわち着衣)にこそ、真のエロティシズムが宿る。

「肉」はキリスト教神学的に把捉すれば、「聖霊の神殿」(パウロ)である。
アンリはエイレナイオスの学説を敷衍しつつ、キリストだけが「受肉」するのではない、と述べる。
アンリはこの説にエイレナイオスの天才性を見出す。
何故なら、キリスト者になることで、我々信徒も「聖化」されるからだ。
神が人間に肉を与えたのは、このためである。
洗礼を受けていない全ての人間は、肉が「聖化」されていない。
だが、キリストの「言」を「着衣」することで、我々キリスト者も、キリストにおける「受肉」と同じ構図である「聖化」を果たす、とアンリは述べる。

アンリは、世界真理を「元―肉」に見出す。
元―肉とは、すなわち神のロゴスである。
神のロゴスは受肉してキリストとなった。
このキリストを信じ、洗礼を受けて福音を宣べ伝える者は、キリストの身体を着る。
すなわち、ここにおいて「再―受肉」が生起している。
アンリは、これが世界の本質だと確信する。
世界の起源にはキリストがおり、キリストが我々に「肉」を与えた。
他方、物質的な「肉」とは冷笑を伴う「セックスの憂鬱」と「失敗」しか与えない。
セックスで男女が肉的に「合一」しても、魂まで「とろけあう」ことはあくまで詩的世界の領域の誇張法に過ぎない。
これはおそらくアンリの経験論に来歴を持つ。
セックスで「肉」が超越論的に「脱肉化」して根源的な性を乖離した聖性へと到達することは不可能である。
なぜか?
実際にセックスを経験したことのある人にはわかるはずだ。

女性が「彼と魂まで一体化した」というのは、彼女が詩人である証拠であるが、これは肉の超越論的次元で語られているわけではない。
肉とは、本質的に神が被造物代表である我々に、「聖化」されるべきものとしてお与えにられたものである。
肉とは、キリストの「受肉」のルプレザンタシオンである。

アンリはキリスト教と現象学の究極的接点を「受肉」に見出す。
アンリの「キリスト教的転回」を告げる、現象学を学ぶ全ての人間にとっての必読書であり、類稀なる傑作である。
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