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04/06のツイートまとめ

afterfinitude01

(h)晩期モランディが水彩画に着手して物の輪郭線をアモルフにし始めたのは、物が朽ちて消滅することを暗示する。形態の亡霊とは、死せるものも無機物も全ては同じく消滅の可能性に晒されていることを意味している。少しずつ変化する墓地の群れとしての絵画。
04-06 17:59

(g)以上から、モランディは絵画の定義を再構成していると考えられる。全ては物であり、描かれた人物もやがては物化する点が示唆される。どこか地下納骨堂的な雰囲気は、あらゆる生命の物性を先取っているからである。つまり私も観者もやがてはこれと同じように横たわる、ということを。
04-06 17:53

(f)絶滅(ブラシエ)や祖先以前性(メイヤスー)の問題を踏まえると、画家自身/描かれた対象/絵画という三項も全て単なる物に過ぎず、「ある物(画家)が別の物(瓶)を〜のように知覚していた」という図式だけが浮上する。そして描かれた瓶はそこにある瓶とは違うように見えることが強調される。
04-06 17:46

(e)物がある、ゆえに絵画は存在する。それ以上でも以下でもない。ほんの少し瓶の位置を変えただけで絵画が、つまりはひとつの世界は変わる。だがこの点を相関とは別の道において捉える必要がある。つまり物に優位する画家の目という階層性ではなく、画家も物も単なるオブジェクトとして捉えること。
04-06 17:38

(d)彼は聖書やパスカル、レオパルディを愛したが、こうした傾向は物の静けさと通底する。彼自身は物の本質を捉えようとはしていない。むしろ、「物は私にはこう見える、それが絵画である」ことを徹底化し反復している。それはいわば能動的かつ戦略的な「怠惰」ですらある。
04-06 17:32

(c)彼は動物や人間のような生きた生命よりも物に何か濃密な気配を感じている。花を描く場合、造花を買うことに躊躇いがないのも無機質なものへの志向性に由来する。作品群は閉鎖的で自己完結しているが、この完結した世界の内部で物体同士は豊かに生成し合い、ある種のカーニバルを起こしている。
04-06 17:27

(b)むしろ彼の場合「物体がただそこにある」ことの素朴な驚異こそが問題になる。なぜ飽きもせずに物体同士の配置を変えて描き続けるのか。それはこの配置それ自体が彼の感覚様態を代理しているからだろう。瓶よりもポットが前方にある方が「悲劇的」である、という具合に配置と感覚が相互接続する。
04-06 17:23

モランディ展鑑賞記録(a)画家は「我々の見方そのものが非現実的である」と言うが、こうした超越論的主観に収斂していく立場は相関的循環を招く。例えば、物体同士を癒着させて描く非現実的な描写もシュルレアリスムに還元され得るので、この点での解釈には思想的な意義はさほどない。
04-06 17:18

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