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04/26のツイートまとめ

afterfinitude01

RT @HODGE_EGDOH: 【聖なる泉 (ゴシック叢書)/H.ジェイムズ 他】このパーティ参加者の中で誰と誰が付き合っているのか。「私」はそれだけを観察し、推理し、理論化を企てる。「私」の理論によれば、あるカップルの一人が聡明に... →http://t.co/8MFrr
04-26 20:47

『聖なる泉』の場合も吸血鬼がいる/いないが宙吊りにされたまま、「若返り」という極めて主観的(誤認的)な事実のみを担保にして展開していく。『ねじの回転』はこれの幽霊版。どちらもジェイムズは大衆的なゴシック的要素を盛り込みつつ、それを「意識の流れ」で翻案しているといった具合だろうか。
04-26 20:44

メタファーに注目すると、例えばマイルズがピアノ演奏する感動的な場面を旧約聖書のダビデの笛吹き(悪霊を退散させる力)になぞらえる辺り、やはり悪魔とその祓の問題をジェイムズが反復しようとしていたとも考えられる。ただ、『聖なる泉』と同じで、結局は「意識」の問題になっていくようだ。
04-26 20:38

字義的に、書かれてあることが実際に現象として起きたとすれば、フローラは間違いなく悪霊の使い(語り手を不安に追い込んでいく魔女)になってしまう。冒頭で家庭教師のことをわりかし良識人っぽく言及していた点も踏まえると、やっぱりあの屋敷そのものが妄想の磁場のようになっているのかも。
04-26 20:32

『ねじの回転』でよく言われる解釈が、語り手のヒステリー(マイルズたちの叔父への欲望)だけれど、それだけで二体も幽霊を見てしまうようになるだろうか。こうやってあれこれ考えさせることがジェイムズの企図ではあるけれども。
04-26 20:25

二人とも語り手にとって初めは天使的で清らかな存在として描かれているけれど、いつの間にか悪魔の手先のような表現になっていく。ジェイムズが意識の専門家なだけに、情緒不安な語り手の一人称を読むのは辛い。この辛さが、結局、見える人には幽霊は見える(虚構的直観)ことを証明してしまう。
04-26 20:21

昨夜はジェイムズ『ねじの回転』を眠る前にベッドで読んでいたんだけれど、やっぱりこの小説かなり不気味だな。語り手の家庭教師にしか幽霊が見えていない場合、館の子ども(フローラとマイルズ)の行動の不可解さを説明できなくなる。二人が先生を「はめてた」のだろうか。
04-26 20:15

RT @Situations01: 「最も恐るべき歓喜は、ある神が死ぬことでなければならない」——マルティン・ハイデッガー『跳躍』を通奏低音に、神に見放された青年の秘められた大罪を描く表題作など、六篇の不安に満ちた中短編を収録。鈴村智久『エルサレム』(装訂/門倉ユカ)https…
04-26 08:08

メイヤスーやハーマンがアートに導入されたりしている動きと並行して日本でも重要になっていくと思う。「「敵対」と「否定」に価値を見出しつつ、それらを多層的にとらえ直すビショップの鋭く豊かな思考は、「関係性の美学」以後のアートの構造を理解するうえで必ず踏まえるべきものといえるだろう」
04-26 08:08

『表象』で長らくレア扱いになっていたクレア・ビショップの代表作が来月遂に出る模様。ずっとこれが読みたかった。『人工地獄 現代アートと観客の政治学』 | 動く出版社 フィルムアート社 https://t.co/iegiC7Avlc
04-26 07:55

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