† Twitter †

05/30のツイートまとめ

afterfinitude01

エコール・ノルマル時代のブルデュー(前から3列目、右から5人目。ちょっと見にくい) https://t.co/IPeEbkutlJ
05-30 14:55

いかにブルデューが強烈なエリート意識を持っていたかがわかる。加藤晴久は「基本的にノルマリアンでないと評価しない」ような好き嫌いの激しさがあったとも仄めかしている。そしてこの「好き嫌い」が生まれるハビトゥスの類似性こそ、ブルデュー社会学の基本的なテーマ。
05-30 14:49

批判的にであれ評価したのはフーコー、デリダ、レヴィ=ストロースで、逆に相手にすらしなかったのはリオタール、ボードリヤール(彼らはノルマリアンではない)、ソレルス、ドゥブレ、バルト、そしてドゥルーズ(「68年以前はアグレカシオンの受験用参考書を書いていた哲学教師」)など。
05-30 14:45

印象的で記憶に値するのは、ブランショとバタイユについてのブルデューの意見。いかにもブルデュー的な応答だと思う。「彼らは私には意味を持たなかった。私は自分の中のブルジョワを殺す必要はなかったから」。
05-30 14:32

バルトは確かに単なる作家とみなした方が腑に落ちる。小説を生み出さない作家が評論を書いていた、と。明らかにタイプが違う。
05-30 14:26

わけですが、グラマトロジーだアルケオロジーだとかいうものが流行りました。バルトも科学ごっこをしたのです。繰り返しになりますが、彼は感受性の人で、理論の人ではありません」(p110-111)
05-30 14:23

人間ですが、絶えず位置を変えた人です。理論はまったく駄目な人です。『モードの体系』は完全な失敗作です。自分でもそう認めていました。モードについて3p書かせれば優れた直感を働かせます。結局、彼もeffet 《-logie》に取り憑かれたのです。-logieは科学を意味する
05-30 14:21

以前から私は松浦寿輝も事あるごとにインスピレーションの源にしていたというバルトのどこが素晴らしいのか全く理解できなかったが、本書で掲載されているブルデューへのインタビューを読んでようやく腑に落ちた。「要するに波間に浮かぶコルク栓みたいな人なのです。感性豊かで頭のよい、素晴らしい
05-30 14:15

昨夜は遅くまでブルデューと親交が深かった東大名誉教授の加藤晴久『ブルデュー 闘う知識人』を150pほど読んでいた。ブルデューが一年遅れてエコール・ノルマルに入ってきた同い年のデリダを、いかに生涯に渡ってライバル視していたか。彼がコレージュ・ド・フランスに来ることをいかに望んだか。
05-30 14:03

RT @parages: だとしても、未曾有の惨禍の被害者として坪井氏当人が「謝罪は必要ない」と言い切るに至ったことの重みは想像を絶するものがある。このことをたんに「戦後70年」という時の流れがもたらした結果として、あるいは「未来志向」といった美辞麗句で理解したふりを決してしな…
05-30 13:42



RT @parages: 謝罪と赦しのプロセスには一種の主権的な身ぶりが伴い、それがもたらす負い目が再び謝罪と赦しのプロセスを反復してしまうことの問題をデリダは執拗に指摘していた。確かにそのような連鎖を断ち切ろうとして達した一つの境地をここに認めることができるかもしれない。
05-30 13:42

RT @parages: これは決して怒りや憎しみをまぎらわすための言葉でもなければ、情勢から謝罪要求を諦めて仕方なく出た言葉でもなく、また謝罪を求めた者が与える赦しの代替物でもない。それは、いうなれば「赦しなき赦し」であり、結局は「赦し」という言葉さえ不適切ななにか別のものだ…
05-30 13:42

RT @parages: オバマの広島訪問の歴史的意義は疑い得ないものの、オバマが謝罪の言葉を述べるべきであったかどうか、それこそが真の歴史的和解になりえたのか、自分にはわからない。ただ、広島被団協の坪井氏が「謝罪は必要ない」と述べる境地へと行き着いたことの意味を考えている。
05-30 13:42

RT @skkzm: グレアム・ハーマン: Art Without Relationsを訳したので、オブジェクト指向存在論やその周辺のアート作品群に興味のある人達に少しでも伝わればと思い載せることに(問題があれば削除します)。https://t.co/mRJQzhmRdV
05-30 13:39

関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next