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06/08のツイートまとめ

afterfinitude01

カンバーバッチの『ハムレット』を鑑賞したことで、私の中の何かも贖われ、清められたのかもしれない。シェイクスピアにはモーツァルトと同じように、オペラ用語で言えばセリアとブッファの絶妙な混合が感じられた。悲劇の質は、内部に喜劇を含み持つその効果如何にかかっているのかもしれない。
06-08 21:18

ものでもあった。『ハムレット』には聖書からの引用が散見されるが、クローディアスだけでなくハムレットにも「誤認殺人」(ポローニアスの死)という神からの罰が与えられる、と解釈することは台詞からも可能だろう。悩み過ぎ、悲嘆に耽り続けることは一方で「傲慢」の罪にも抵触していたという事実。
06-08 21:12

物語としては、『ハムレット』がメタ的構造(劇中劇)を採用し、いわば演劇を通してクローディアスの「良心」を揺さぶる点が非常に興味深い。ここでハムレットが役者に演技指導する場面は、そのまま「演劇」それ自体のカリカチュアになっていただろうし、同時にシェイクスピアの演技観の一端が窺える
06-08 21:07

のようだった。ラファエル前派が画題でよく選んだオフィーリアのように審美化されたものは演劇では皆無であり、徹底的にアムロージ(狂気)のグロテスクで痛ましい側面が前景化していた(オフィーリアの毛髪が抜け落ちていたのもその生々しい演出の一部だろう)。
06-08 20:59

ないだろう。一方、オフィーリアはハムレットとはまた異なる狂気を見せていて、ハムレットの王子としての個人的な苦ではなく、より大きなデンマーク王室全体の集団的レベルでの苦をシンボリックに表出している気がした。オフィーリアという他者が死んで初めて、彼らは「何が」起こっているのか悟ったか
06-08 20:56

演技力というものは、やはり「憑依」に近いのだろう。ガートルードは、ハムレットの父とクローディアスの両方と関係を持つ、この物語の最も重要なキーパーソンであるだけに、あのオフィーリアを失って驚き、絶望に暮れる姿には凄まじいものがあった。おそらく私はあれほどの「悲嘆」にはしばらく出会え
06-08 20:52

ハムレットの他、ガートルードとオフィーリアの女優二人にも鬼気迫るものがあった。特にオフィーリアが死んだ直後、その事実をレアティーズに告げる場面。あのような凄まじい悲嘆の表現を私は映画では見たことがない。なりふり構わず、おそらくは観客の存在さえ一瞬は完全に忘れ去って泣くことのできる
06-08 20:49

凄まじい集中力を伴う運動のように、全身汗塗れになりながらハムレットに成り切っていた。そのエネルギッシュで陽気ですらある演技と、役柄が背負うシリアスな「存在の孤独」のようなものの微妙な兼ね合いが、カンバーバッチ版ハムレットの最大の魅力のように感じられた。
06-08 20:41

いるのか、激烈な絶望と孤独、行き場のない哀しみに支配されて苦しむ姿が印象的だった。次から次へと言葉が奔流するものの、全てが「名状し難さ」を患っていてから滑りしていく。その狂気と正気の瀬戸際をカンバーバッチは半ば愉しんでいる様子だった。演じる、というよりはある種のスポーツ選手の
06-08 20:37

元々、ハムレット物語の原型は12世紀末のデンマークの教会書記サクソ・グラマティウス編纂による『デンマーク史話』第三巻「アムレトゥスの物語」とされているが、この名前のアイスランド語源「アムロージ」は「狂人、狂気」を意味している。今回、カンバーバッチが演じたハムレットも、狂気を演じて
06-08 20:32



本日はシェイクスピア没後400年記念として、女性演出家リンゼイ・ターナー、ベネディクト・カンバーバッチ主演による『ハムレット』(ロイヤル・ナショナル・シアター・ライブ)をbunkamuraル・シネマにて鑑賞。 https://t.co/1R79AUmUSo
06-08 20:19

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