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07/25のツイートまとめ

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『ウェブ社会のゆくえ』の著者鈴木謙介氏の考察。現実の〈多孔化〉が進む今、「ポケモンGO」は「情報空間の争奪戦を引き起こす」【「ポケモンGO」を社会学的に考えるためのヒント】 https://t.co/rijknT6vP8
07-25 14:56

ブルデュー社会学をそのまま全面的に現代日本に適用不可能なのは周知の事実だが、前掲書や『国家貴族』では「近代国家」の権力構造の問題系として自身の理論を再構成している。フランスのある年代に限定されるどころか、より大きな視座で捉える必要があるだろう。
07-25 07:07

更に補足すると、山下氏は『ディスタンクシオン』は60〜70年代フランス社会という個別具体的事例にのみ妥当する「限定的理論」だと示唆してもいるが、私は『パスカル的省察』を再読する過程でもう少し異なる考えを持つに至った。
07-25 06:58

例えば毎週漫画やアニメも楽しみ、月2でオペラや歌舞伎も鑑賞する美術・文学に教養ある行為者が「文化は本質的に横断的なので階層はない」と批判したとする。これはしかし文化的階層性の批判足りえない。何故なら、依然として「高尚な感じ」という感覚的与件それ自体はハビトゥスに由来するのだから。
07-25 06:54

ブルデューを批判的に発展させるライールにも共通し、山下氏も認めているのが文化的階層性だという点は変わらない。換言すれば、横断性、異種混淆性を認めるにせよ現代文化には貴族的/庶民的なコードが確かにあり、ハイカルチャー消費は依然、文化貴族と相関しているという事実。
07-25 06:42

ただ、個人の気質・性格こそハビトゥスの産物だとするのがブルデュー社会学の前提でもあるので、文化的排他性(大衆文化に暗に侮蔑的な態度)には精神分析でいう「抑圧されたものの回帰」が読み取れるのかもしれない。私自身の好みで言うと、ライールよりブルデューの文体の方がはるかに魅力的だが。
07-25 06:29

私は現段階では、ブルデューの文化的排他主義(文化的階層性の肯定)は、彼自身の気質の問題だと考えている。仮に同じく農夫家系の社会学者がライールと同じ立場になる可能性はあるし、庶民階級出が皆ブルデューのような文化的排他性を採用するわけでもない。つまり、個人の気質(性格)である。
07-25 06:24

上流階級ほど文化消費パターンは文化貴族特有のハイカルチャー消費であり、この性向は子孫に再生産されるブルデューの文化論には必然的に「文化的狭小さ」が伴うというライールの指摘は確かに一理ある。ただ、だからといってライールのように寛容主義に立って大衆文化との混淆性を容認するのもどうか。
07-25 06:16

山下氏はライール『諸個人の文化』の鍵概念であるdissonanceを取り上げつつブルデューの文化的排他性を批判する視座を与えている。ブルデューのように新聞配達夫の息子として生まれ、反骨性向を身体化したノルマリアンほど、エリアスの宮廷社会論を下敷きにした文化的階層性を強調し易い。
07-25 06:06

先週は単著を読み進めつつ合計3本の論文を消化したが、調子が良い時だと出勤日でも2日に1本の割合でクリアできるかもしれない。特に刺激的な論文だと、あっという間に読み終えてしまう。
07-25 06:00



山下雅之「ディスタンクシオンの消滅」(『思想』2015,6)読了。期待通りの素晴らしい論稿。同号には他に檜垣立哉のホワイトヘッド/ドゥルーズ論、土田友則のプルースト論も収録されている。目的は山下氏のブルデュー/ライール論だったが、他の論稿も面白そうで久しぶりに多幸感に包まれた。
07-25 05:56

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