† 存在論 †

M・ハイデッガー『アリストテレスの現象学的解釈』

アリストテレスの現象学的解釈―「存在と時間」への道アリストテレスの現象学的解釈―「存在と時間」への道
(2008/02)
マルティン・ハイデガー

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ハイデガーの初期神学論文

ハイデガーほどファルス中心主義的な哲学者もいないのだが、本書は当時のドイツで影ながら話題を呼んでいた、ハイデガーなどという若い私講師が書き上げた、いわば小論である。
この小論は、当時の学者たちに噂として流布され、「一体このハイデガーとは何者だ?」と凄まじい関心を持たれていた。
それもそのはず、実は本書は、かのアリストテレスを、「フッサール」の系列へ、つまり一人の現象学者として描き出すことを目的としたものだったからである。
ハイデガーに直接指導を受けていたドイツの哲学者ハンス・ゲオルグ・ガダマーは、本書が当時のヨーロッパ哲学界において、どれほど衝撃的なインパクトを持っていたかを力説している。
が、我々は二十一世紀に生きているので、冷静に初期ハイデガーのテクストを読解してみることにしよう。

まず、本書は、『有と時』(全集版2巻)のプレテクストである。
したがって、重要性の面では、『有と時』に劣り、明らかに荒削りである。
私はここで、『有と時』の諸テーマがどれほど出揃っていたのか、などというハイデガー研究者がいかにもやりそうなことを、わざわざブログで公開したりしない。
そんな下らないことをしても、二十一世紀の現代思想には何の意味も生起しない。

ここで、私は私独自の読みを展開しようと考える。

1、ハイデガーとペトゥルス・ロンバルドゥスの不思議な関係について

注目すべきは、ハイデガーが本書で「キリスト教神学」に真正面から取り組んではいない、ということである。
ハイデガーは、この頃から既に神に敵対しようとしていたし、それが哲学の使命であり、それゆえに、哲学は神と常に対峙できる、と確信していた。(ニーチェ的な彼の性格が既に芽生えている)
が、ハイデガーはキリスト教神学(カトリック神学、プロテスタント神学)を学んでいる。
彼が神学部から哲学部へ「移籍」したという若い頃のエピソードは興味深い。

ハイデガーは、実は「前期ルター」と「後期スコラ学」に巨大な関心を抱いている。
というのは、まずルターは、パウロとアウグスティヌスの影響下に彼の神学を再構成したからである。
ルターは後期スコラ学に属する、ドゥンス・スコトゥス、オッカム、ガブリエル・ビール、グレゴール・フォン・リミエと神学的な対決を試みている。
このような思想的な系統図を、ハイデガーは「ルター」を核にして本書で突然描き始めるのだ。

さて、ハイデガーが最も関心を示しているのは、実はペトゥルス・ロンバルドゥスである。
ハイデガーは、「彼の命題論注解の解釈学的構造は未だ開拓されていない」などと述べている。
ペトゥルス・ロンバルドゥスへは、アウグスティヌス、ヒエロニムス、ヨハネス・ダマスケヌスなどが影響を与えている。
後期スコラ学に大きな影響を与えたのは、トマス・アクィナス、ボナヴェントゥラなどである。
ハイデガーは、いわばペトゥルス・ロンバルドゥスへの先行する諸テクストとの影響関係が、あまり触れられていないことに注目して、ここにスポットを当てようとしている。
若い頃のハイデガーが、何故彼に注目しているのか、その仔細は不明である。
が、彼は本書で、わずか二行の短いテクストにおいて、彼の研究が未開拓であることを何故か指摘するのである。

神学と哲学はウロボロスの蛇のように互いに癒合し、影響を与え合って進展してきた。
その起源とは誰なのか?
ここで、誰もがアリストテレスやプラトンの“顔”を思い浮かべるだろう。
だが、ハイデガーは「アリストテレス」を意識しつつ、以下のように「間テクスト」的な発言を行う。

「アリストテレスとは、ただ単に彼以前の哲学を完成し具体的に練成したにすぎない」(p50)



2、ハイデガーの機械人形論

若い頃から、ハイデガーはおそらく、集団で人が歩く姿を見ながら物思いに沈んでいた。
集団で人が同じ服装をして歩いている光景を、彼は少年時代に見たのではないか?
でなければ、ここでNiemand(誰でもない者)などという、マリオネット的なコンセプトが登場するはずがない。

ハイデガーには、人間という存在が、ある共通の画一的な「ひと」という有り方に頽落している、と感じられていた。
例えば、結婚し、家庭を持ち、老いて孫に囲まれてやがて死ぬ。
何か組織に加担し、そこで労働し、社会の歯車を演じ、やがて退社する。
こういったことを、ひとはひとである以上、行わずにはいられない。
それは創世記の堕罪以後のアダムの姿を見れば明らかである。

が、ハイデガーは、「忘年会」「カラオケ」「ボーリング」などといった社交的な付き合いを、おそらくは猛烈に忌避するタイプの男性であった。
彼には、そういうことをして笑いあう人間が、何かを忘却しているように見えた。
そう、それが「有への問い」である。
そして、この「有への問い」を問うことを「忘却」することこそが、人間が人間であることの証拠でもあるのだ。
彼はそれに気付いていた。
何故なら、ハイデガーもまた、「大学」という組織の人だったからである。

3、若きハイデガーにとって、哲学とは何であるべきだったか?

ハイデガーは、ここで「ボルヘス駁論」を試みている。
ボルヘスとは、知識の人、記憶の作家、歩くウィキペディアであった。

ボルヘスは「引用」によることでしか語ることができない思想家であった。
それは厳密には思想家ではない。
彼の文体を見れば明らかだが、彼は「引用」を繰り返す機械であった。
彼は、読むことをしてから書くのであり、いわば常に他者化された存在であった。

本書でハイデガーはボルヘスを徹底的に論駁する。

彼にとって、真の哲学とは、

・徹底的に単純であること (例えば、「有る」とは何か?)
・不可解さに突入できるほどの概念であること



この二つしかなかった。
ハイデガーにとっては、それが「有るとは何か」だったのである。
「何故私が有るのか?」という自己定立的な現象学ではなく、「どのようにして、有るものが世界に発生するのか?」という創造論的な見地にまで彼は足を踏み込んだ。
ハイデガーの存在論は、この点でキリスト教神学のジェネシスの概念を反復している。

そして、興味深いことは、ハイデガーがやはり、なんといっても「怠惰」であったことである。
ハイデガーは性格的には閉鎖的で、「怠惰」ですらあったのではないか。
何故なら、彼は「理解」の概念について、

・根源的に反復すること



と定義しているからである。
これは『有と時』のハイデガーから、『寄与論稿』のハイデガーまで共通している。
ハイデガーが一体どれほど、「反復」的な問いを設置しただろうか?
彼は全ての問いを「有への問い」へと還元した。
ここには権力構造が伺える。
レヴィナスの見事な批判を用いれば、ハイデガーの存在論とは、正確には「存在論的帝国主義」なのである。
彼は哲学とは、「有への問い」を問い続ける――つまり反復し続ける――ことだと確信している。
ハイデガーにとっては、「神」という概念が、「有」へ語義的に変換されている。
要するに、彼は神学を( )に入れて、存在論的な見地から、今度は「有」という新しい「最後の神」を問うのである。
つまり、ハイデガー哲学とは、厳密には一つの神話論であり、それゆえに宗教的なのである。
ハイデガーには、「有ること」「有るもの」「有るものそのもの、つまり有自体」といった大いなる謎が、謎として彼の思考回路を束縛していたことに、気付いているにも関わらずそれに身をゆだねるような性癖がある。
彼は孤高の塔、象牙の塔で、ただ一人、問い続ける思想の巨人を「演技」しているのだ。

4、若いハイデガーと若いデリダがもしも議論を繰り広げれば・・・かの問いは?

デリダの哲学の本質は、「原-痕跡」である。
これには数知れない異名があり、例えば「差延」「パレルゴン(余白)」がそうである。
余白とは、「書かれていない空白の場所」である。
これを、プラトンは『ティマイオス』で「コーラ」と表現している。
したがって、デリダ思想の中枢概念は、「コーラ」ともいえる。

だが、ハイデガーは、「存在論的構造」の条件を、「言明」と「注視」に限定する。
有るものが見られて、それが記述される時、ここには存在論的に証明を与える二重のプロセスが働いている。
見られること、これが存在するものの条件であり、同時に、見られるのであれば書かれることも可能性としてはある以上、これも存在するものの条件である。
「山」について我々は書く。
だから「山」は存在することができる。
これは逆説である。
つまり、「書かれないもの」は存在することができない、という命題をも含んでいるのだ。
例えば、神は見られることがない。
だが、神について書かれるのは何故か?
これは最大のパラドクスである。
ハイデガーは、「書かれること(レゲイン)」「見られること(エイドス)」の二つに、存在論の基礎を見出す。
実は、これはアリストテレスが『自然学』で述べていることを反復しているのである。
この限りで、ハイデガーはアリストテレスの弟子である、というよりは、二〇世紀のアリストテレスその人であった。
が、デリダは「余白」に関心を抱く。
余白とは、「書かれていない欄外」であるので、翻訳することも読むこともできない。
つまり、ハイデガーが「存在しない」として追放し、迫害した概念を、デリダは救済するのだ。
こういった概念的な預言者的側面が、私にデリダを読ませる最大の原因である。
デリダは「余白」に注目し、ハイデガーは「書かれた言葉」をしか読まない。
ハイデガーは存在の条件を「見られること/書かれること」(或いは、聞かれること、触れられること)などに限定するが、デリダは「見られないこと/書かれざること」にスポットを当てる。
この決定的差異の歴史の系統図が、どれほど古いかは解らない。

だが、一ついえることは、デリダもハイデガーも同じく、フッサールを決定的に「師」と選んだという点である。
そのフッサールはといえば、「幽霊」の実在を明証した。(『イデーン』の「虚構的直観」の概念を調査せよ)
それは「証明」ではない。
「明証」とは純粋意識によって本質直観することであり、客観的にその事物が「有る」と定義することではない。
デリダはフッサールの「幽霊」に対する感覚を重視した。
が、実はハイデガーも同じである。
ハイデガーにとっては、それが「有」という「幽霊」だったに過ぎない。


最後に、本書ではアリストテレスが現象学に属することの証明が与えられている。

「直知はもろもろの形相の形相であり、感覚はもろもろの感覚されるものの形相である」

「直覚とは・・・・・・原初的(オリギネール)に与えるものである」



このようなフッサールの「前エポケー」的な見解を、既にアリストテレスは『ニコマコス倫理学』第6巻で表明していたことをハイデガーは再発見している。
だが、思想とは循環するものであるので、別に驚愕するほどのことでもない。

本書は、いずれにせよ、ハイデガーを学ぶ読者にとっては必読だと強く感じる。
何より、ハイデガーの若い頃の声が聞こえる。
既に彼は厳密にあらゆる世界を解釈していく分析家・解体家としての性格を表出している。
だが、『有と時』を未読の読者は、これからハイデガーに入ってもいいだろう。

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