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09/03のツイートまとめ

afterfinitude01

今、新しく日本でキリスト教に惹かれ、ローマ・カトリック教会で洗礼を受けた人がその内部で「キリストの不在」を認識するまでに至った時——その時、初めて改正宗教法人法ではメンバーが最低3名いれば「教団」が成立可能だという事実が急迫してくるのではないか。
09-03 20:49

私がメイヤスーに最初に惹かれたのは「亡霊のジレンマ」が端緒だった。ナンシーのいうキリスト教のPost-aggiornamentoについて考える上で非常に重要な神論。
09-03 20:40

RT @dessinatrice001: ウンベルト・エーコの師であったイタリアの哲学者ルイジ・パレイソンは以下のように述べている。「現在、キリスト教それ自体が否定される可能性を省察するようなキリスト教のみが、唯一今日的でありうる」
09-03 20:16

RT @dessinatrice001: 「神の不在は、不在についての神的な性質、言い換えれば、いま現実に潜在的状態に留まっているものは、来るべき神のpossibilité(可能性)を秘めていることを意味する」クァンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」
09-03 20:13

RT @dessinatrice001: 「我々が現在立ち至っている情勢とは、aggiornamento(カトリック教会の近代化、改革、時代への適応)ではなく、Post-aggiornamentoの情勢なのです。」ジャン=リュック・ナンシー『脱閉域 キリスト教の脱構築』
09-03 20:12

立場として、⑴私は無神論者であり快楽主義者である⑵私はキリスト教徒であり聖職者である上記二つは私にとって合理的なタイプで肯定可能。問題は⑶私はキリスト教徒であり世俗に甘んじるであり、この場合の「甘んじる」は自由意志の具体化として捉えられる。つまり⑶は⑴に反転し易い。
09-03 16:18

修道女になろうと思うほどにキリストに身も心も捧げるつもりはありませんが、俗世(ティーパーティーであれSNSであれ)でキリストの教えを「自分なりに噛み砕いて」伝えることには熱心な方です——カトリック平信徒に往々にして見られる宗教的自負などこの程度のもの。
09-03 16:12

私は教会であまりにも多くの平信徒の女性(カトリックのミサ後の婦人会で二十代前半の男性は珍しかった)と話してきたので、彼女たちが何に「嫉妬」を感じ易いか経験的に知っている。極言すれば「青年達から人気のあるシスター」で、なおかつ「美しい」とこれば平信徒が俗世に寝返る条件は整う。
09-03 14:52

換言すれば「キリスト教系の学校で学んだのでこの手の文化全般が今でも好き」程度の平信徒がいかに日本に多いかということであり、彼らは世俗と聖性のあいだを「気楽に」横断する。そこに洗練された美意識などなく、あるのは「程よく俗世も味わいたい」という温い妥協の産物に過ぎない。
09-03 14:44

キリストの教えに惹かれるカトリックの平信徒なら洗礼後も教会内外でずいぶん見てきたが、本当に召命を受けた人かどうかは「世俗を完全に捨てる」意志を持つか否かで判断可能。聖職がキリスト教内で特権化されるのも制度的なプロセスを経たからであって、そこにこそ平信徒からの卓越化が見出される。
09-03 14:35



RT @arinashobo: ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの曲芸的芸術論、歴史の眼1『イメージが位置をとるとき』を刊行いたします。ブレヒトの『戦争案内』と『作業日誌』をとりあげ、すなわち、「ヴァールブルクからブレヒトへ継承された黒いパネルの上に、写真‐詩/文字のターブル/…
09-03 13:18

RT @lunar_shirayuki: 鎌倉の吉屋信子記念館にもいつか訪れたい。https://t.co/5Q1UxOigyT
09-03 02:21

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