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09/18のツイートまとめ

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齋藤氏はフィンクも治療の成功例を出していない点を批判していたが、ラカン派が依然として社会批評において有効な点は認めていた。SRの紹介などで日本では非相関主義的な文脈に関心が集まっているが、あくまで医療現場では「人間不在」はあり得ない——そういう点でセイックラも評価されていた。
09-18 23:49

現代日本の精神病院における収容主義の終焉(今後は病院の廃墟化が進む)や、「統合失調症」という一昔前まで流布していた概念の問題点については小泉義之氏の論稿でも共有されていた。精神医療は今、ラカンの乗り越えや医療体制の改善も含めて「過渡期」にあるという空気が濃密に伝わる特集である。
09-18 23:23

9月号『現代思想』精神療法特集の齋藤、村上対談ではラカン派分析がいかに実践の場で使い難いかという問題点が指摘されていたが、一方でセイックラ『オープンダイアローグ』は日本で普及するか、統合失調症概念の解体などの言及もあり参考になった。 https://t.co/0oZHkWZvPr
09-18 23:15

おそらくジェイムズのロマンスの美学は「階級を越える至高の愛」が成立する地点にあるのではなく、かつてそのような愛を実践した一人の婦人が社会経験によって「純愛」よりも「形式」(貴族同士の同族型再生産に与した世間体の維持)を重視せざるを得ない「苦悩」の瞬間にこそある。
09-18 20:09

階層的断絶が愛を決定的に左右するプロセスは上流階級を描いた文学では往々にして見られる。財産や地位への執着から解放された自由な結婚の選択が若きイザベルの信念だったが、オズモンド夫人となった彼女はかつての自分と似たロウジアを財力の不十分という観点から拒絶せざるを得ない。
09-18 20:03

パーセル《四声の十のソナタ》(1697)を聴きながら『ある婦人の肖像』を読み返していたが、メロディーの憐憫を感じさせるような甘い優雅な感覚の賜物なのか、37章のロウジアとイザベルの最後の会話場面で思わず涙が頬を伝った。
09-18 19:49

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