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10/24のツイートまとめ

afterfinitude01

カリエールの画風をレオナルドを初めとしたスフマートの技法に回収する解釈は、昨今の美術史研究では皮肉の対象になっていて、例えばレオン・ダジュネはあえてvibrationと表現している——カリエールのあの神秘的なぼかしを語る上で、この表現は実にエレガント。
10-24 19:14

カリエールとロダンの方法論的な共通点について、対象の全体をmasseで捉えるというのは重要だろう。色彩ではない。何かがそこに「ある」、その量的な触知性の優越が最初の対象把握において起こっていて、それは「見られない」ように慎重に靄をかけた幽霊的な現前を解明する鍵になるかもしれない。
10-24 19:02

昨夜、彼女から「クラーナハ、退屈だったの?」と言われたけれど、勿論そんなことはなかった。私の場合、たった一枚の小さなエスキスであれ、画家の審美眼と全力で対峙したいという情熱が強いので、複雑な葛藤を伴う闘いが生じることは往々にしてある。クラーナハのような強烈な個性なら尚更。
10-24 18:49

逆に言えば、クラーナハを通じて私が何を「美」と認め得ないか(美的判断の基準点)が照射されているとも言える。ターナー、シャルダン、ホイッスラー、ハンマースホイ、カリエール、ファンタン=ラトゥール、ワイエスといった私が愛する巨匠たちに備わる美質と、クラーナハは「何か」が相容れない。
10-24 01:26

⑵最後に森山泰昌のパロディを展示してしまった点(これは何気に決定的だった)。私たちのそばにいたフランス人カップルも、彼のこの絵画の古き良き伝統から哀しく離れてしまった唐突な写真の出現には声を失っていた。展示構成は不統一で、それ自体美しくはなかった。
10-24 01:16

今期の絵画展で比較すると、やはりカリエールの方が研ぎ澄まされた上質な時間を提供してくれたと感じる。今回のクラーナハ展でなぜ「美」を感じなかったか、その理由は二つほどある。⑴女性像の目のアジア風の細さ、身体のぎこちない幼さは必ずしも私にとって美的な容姿に含まれない。
10-24 01:12

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