† フェミニズム †

性差の新たなchoreography

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フェミニズムについて

私は今、フェミニズムを学び始めている。
無論、これまでと同じく、全ては独学に委ねられるが、それには内面的な理由もある。
私自身が、「女性」に対して、もしかすると偏った見方しかしていないような気がするからだ。

このブログで行った「内省」のシリーズで、私は自分が「母性愛的な女性に惹かれやすい」青年であることがわかった。
だが、はっきり断言しておきたい。
「母性愛」というが、それは果たして、女性の条件のようにして存在するものなのだろうか?
まだフェミニズムについては少ししか学んでいないが、コーネル女史の著作と、竹村和子女史の『フェミニズム』(岩波書店/思考のフロンティア)を少し読み進めている現段階において、少なくとも一つだけ知ったことがある。
それは、「母性愛?そんなものがこの私にあるの?」という女性が世界にはけっこう存在するということだ。

これまでの読書の延長として述べさせてもらうと、実は私が常々敬愛していたフランスの哲学者ジャック・デリダ氏の奇妙な交友関係である。
デリダはアルジェリア生まれだ。
アルジェリア生まれの代表的なフェミニズムの論客にエレーヌ・シクスー女史がいる。
シクスーはデリダと生涯に渡って知的友愛を育んだ。

そして、実はそれだけではない。
私が今まさに読んでいるアメリカのフェミニズムの大切な論客であるドゥルシラ・コーネル女史も、デリダから「ディコンストリュクシオン」(脱構築)の理論を教わっている。
そう、実はフェミニズムとデリダの思想が友愛を結ぶのは、ここなのだ。
そういうわけで、私はデリダの系列から、いわばフェミニズムにまで関心が拡大した、ともいえる。
そして、デリダの思想の核心である「差延」なのだが、これが極めて重大なことに、コーネルが「母親」として、つまり「大文字の女性」として読んでいる。
デリダの「差延」とは、正確には「原-痕跡」のことだ。
起源が不在であること――この表現で何を思い出すだろうか?
そう、それは、「母親との幼少時代の断絶」である。
これは誰にでも決定的に起きると想われる。
コーネルは、デリダの脱構築理論の本質である「差延」を、「大文字の女性」へと、いわば概念をスライドさせて読んでいる。
その解釈に、私は衝撃を受けた。
詳しくは、前回も紹介した『脱構築と法』に克明に記されている。

私は以前、デリダの初期の修士論文の邦訳に触れた。
そこには、「発生」の問題がテーマとして浮上しており、その「起源」は「不在」だという。
これは、デリダにとって、母親がいなくなってしまった、ということを意味しているのではないか?
存在しているのは、父権性の構造のみであり、母性原理はその余白へと追放されている。
だが、デリダは「余白」を救済する。
デリダの「差延」は、精神分析学の道を通って、実はフェミニズムにまで直通していると想われる。
というより、デリダはむしろ、それを想定しているのだ。

ドメスティック・イデオロギーの専横主義に抗して

さて、それでは「フェミニズム」に内在する特有の諸概念について、ここで少しまとめておきたい。
まず、「セックス」。
セックスが生物学的性差として意味を持つ場合、「ジェンダー」とは社会的性差である。

先ほど紹介した『フェミニズム』という「入門書」の第1章に書かれていることをまとめると、「ジェンダー」とは社会が構成する「意味」だということである。
つまり、女性としてセックスを有しても、ジェンダーとして女性であるとは限らないのだ。
何故なら、ジェンダーにおける「女性」とは「意味」だからであり、そうである以上、時代/文化/国家などによって、当然「女性」の意味も変化してくるからである。

このように考えると、「母性的な」「感覚的な」「センチメンタルな」「詩的な」「流行好きな」・・・から、「宝石好きな」「化粧をする」「テディベアを集める」、そして決定的には「男性と恋する」という、いわゆる「女性的」な因子は、どれもある社会Aの捏造だということになる。
文脈から伝わるのは、女性が自分も男性と同じ存在として男性・女性から扱われる権利があるはずだ、ということである。
何故なら、それが隠密裏でまだ否定されているのが実情だからである。

ただ、コーネル女史も、ジュディス・バトラーの翻訳者でもある竹村女史も、共に生物学的には女性だということだ。
実は、この身体的な性差も、社会が「言語」として捏造する虚構に過ぎない、という説もある。
その来歴はラカンの「鏡像段階」理論であり、鏡(社会)に映る自分を、我々人間は自分だと錯覚するのである。
もしも、既に鏡にフィルターが付けられて、自分がスカートを履いていないのに、鏡にはスカートが付いている女性として映し出されるならば、彼女は本当は「彼」であるのに、「彼女」として強制的に生きざるをえなくなる。
鏡とは社会のことである。
つまり、「女性性」とか「男性性」という表層的な「意味」とは、社会があらかじめプログラムして、生まれてくる主体に、それを貼付していくのである。
かくして、「女性」や「男性」が誕生する。
「男の子でしょうが!ママごとなんてしちゃダメよ!」
「あなたは女の子なんだから、もっとお上品で淑やかになりなさいな」
このような言説は、往々にして母親や地域、学校といったシステムを通じて伝達されるが、これこそが実はジェンダー化された「女性性」「男性性」を「意味賦与」する行為に他ならない。

このようにして社会を見渡すと、驚愕すべき発見が数知れなく存在する。
例えば、「女性週刊誌」「男性ファッション誌」「女の子の部屋特集」「男は必見!モテテク」・・・こういった、安直な性差における「差異」の誇張化は、全て「ドメスティック・イデオロギー」の亜種である。
何故なら、男性ファッション誌を読む少女はいくらでも存在するから。
そして、女の子の部屋特集を参考にしてインテリアを考える男性はいくらでもいるだろうから。

何が女性らしいのか、何が男性らしいのか、これら全てを当初から「こうだ」と決めている全ての言説は本質的に性差の帝国主義であり、それゆえに神話である。
男は外で働き、女は家事をする――これは典型的な「ドメスティック・イデオロギー」である。

ボーヴォワールは「ひとは女に生まれない。女になるのだ」といったが、実は全ての人間は、生まれた段階ではジェンダー的にみれば「男性」なのである。
それなのに、社会がその主体のセックス(生物学的性差)に応じて、「男らしさ」「女らしさ」を配分してしまう。
こうして、セックスとジェンダーの矛盾で苦悩する人間たちが排除されることになる。
つまり、彼らは「パレルゴン(余白)」へと追放されるのだ。
性別が不定形な彼らは「病気」であり、「おかしな異邦人」となってしまう。
だが、こうした人々は、おそらく資本主義社会にこそ多くなると想われる。
マルクス主義フェミニズムという一派が存在し、彼らは前提として、資本主義のシステムそれ自体が、父権性を保存しやすいと指摘している。
我々の周囲にも、セックスとジャンダーの不一致で悩む人がいるはずで、彼らを「異性愛」的な権力構造から救済するためにも、今後ともフェミニズムは重要なのである。

デリダがそこで述べているのは、「性差の新しいコレオグラフィ」、つまり「多性化されたフィールド」である。
デリダは男性のセックスを有するが、彼は「女性のエクリチュール」を実践する。

フェミニズムが盛んになったのは啓蒙主義の影響下であり、歴史としては19世紀と比較的最近だ。
ということは、それだけ今まで「女性」が社会に、男性に、抑圧されてきたのである。
そういうわけで、女性の作家、女性の記録、思考、ジャンル、テーマなどを歴史の中から「発掘」する運動もあり、これは「ガイノ(gyn:女性)クリティックス」と呼ばれている。

私が今読んでいる本も、ボルヘスなどの読み慣れたものを除けば、大半が女性である。
清水博子、笙野頼子、紫式部、ジョルジュ・サンド、ヴァージニア・ウルフ・・・女性とは男性にとっては「未知」に思えるかもしれないが、実はそういう男性自身、自分が「男性」として社会に配分されてきたことを忘れているのだ。
サンドの『愛の妖精』でも、主人公の少女が「野生児」から「女性」へと(ランドリーという好きな男の子に女らしくあれ、と説教されてからだ)目覚めるのだが、実は案外、「野生児」のベクトルに性差の新しいコレオグラフィが存在していると想われる。
その場合、サンドはやはり、社会のジェンダー規制に抑圧されてしまっている、と解釈できないであろうか。

学習は責務である。
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