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11/30のツイートまとめ

afterfinitude01

アディッケスのカント理解については積極的に採用したい側面と留保しておきたい側面が同居している——例えばカントの物自体を超越的な精神的存在者と同格に扱う彼の理解は、それを前近代的な神の「対象a」に制限してしまいかねない。この辺りも含めメイヤスー論の節を更に加筆したいところ。
11-30 07:51

南米やアジアでもSRの受容が活発化している現状を考えると、メイヤスーが物自体へ数学的実在を媒介にした「思弁」によってアクセス可能な道を開いたことと同じ意味で、カントが「思考」により物自体へアクセス可能で、かつ現象の次元でも有限性において「体験」可能とした解釈は極めてラディカル。
11-30 07:43

4章までの段階で彼がカントのこの「物自体の体験」に触れる回数は、私見でざっと10回を優に越えるが、本編ではその内実について具体的な典拠が示されない。説得力を増すために、たとえ仮説であれカントのその特異な体験を記述しておいても良かったはずだが、歴史的解釈を取る彼はそれを容認しない。
11-30 07:36

ただ、最新版『カント事典』によれば、新カント派の中でも物自体の「実在」を強調するアディッケスには批判がある点も意識しておこう。特に物自体を「現象」に内包させ、現象の内でカントがそれを「体験」したことはトリビアルな問題だとする見解には、私を含めて驚かされた読者が多いはず。
11-30 07:30

「思考」と「直観」の差異——物自体にアクセス可能なのは思考であって、直観はあくまでも物質(現象界)が統覚により表象される過程で必要になる概念である以上、物自体へはアクセス不可能だとするアディッケスのカント理解は、ベルクソンの「知覚の減算」(メイヤスー)に通底していよいよ興味深い。
11-30 07:25

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