新しい記事を書く事で広告が消せます。
|
新しい記事を書く事で広告が消せます。
母性という神話 (ちくま学芸文庫)
「あらゆるテクストにはジェンダーがある」 前回も述べたとおり、フェミニズムを学ぶ上で基礎となるツール/コンセプトは以下である。
例えば、ボーヴォワールが「妊娠と出産は牝の屈辱である」と述べたように、世界にはセックスとジェンダーの「はざま」で苦悩する人が沢山いる。 フェミニズムとは、一般的な「男らしさ」「女らしさ」という言葉の暴力を徹底的に解体する巨大な知的運動である。 これから、フェミニズムの武器としての概念を幾つか紹介しよう。 ○イヴ原則 イヴ原則とは、胎発生時の胎児は全て女性の身体的機能を持っており、プロセスによって男性機能が分化してくる、という発生学的な法則である。 つまり、発生学的にみると、男性とは「第二の性」に過ぎないのだ。 胎児は全て「女性」として発生するわけである。 ○ジェンダー・アイデンティティ 「性自認」といわれる。 性自認は2歳までの「言語」獲得期に形成される。 つまり、「男らしさ」「女らしさ」が、この期間までに埋め込まれてしまうわけだ。 「イヴ原則」を見出したマネーとタッカーは、「性別」とはジェンダーであり、セックスではないと断言する。 性別とは、「言語」が生み出すシミュラークルに過ぎないのである。 ○gender difference(差異) フランスの社会学者クリスチーヌ・デルフィが提唱した概念。 この概念で、80年代の当時のフェミニズムを革新したとされる。 彼女によれば、「ジェンダー」とは、「男/女」というニ文法に人間を強制的に分割する差異化「そのもの」である。 標語とされたのは、「二つのジェンダーではなく、一つのジェンダー」である。 つまり、多くの人間が、未だに男(man/homme)、女(woman/femme)というディコトミー(二項対立式の思考フレーム)に呪縛されつつ社会生活を送っている。 そして、社会には、男女共同参画が主張されつつも、未だに微視的なレヴェルで「主体化=隷属化(サブジェクション)」という「暴力」が働いている。 これを摘出するのがフェミニズムであり、デルフィの概念はそれに大きく貢献した。 ○「歴史学とは男性史である」 これはジョーン・スコットが『ジェンダーと歴史学』で宣告したテクストだ。 スコットは、「歴史とはテクストの織物」であると規定した上で、「歴史学からは女性史が排除されている」ことを指摘した。 歴史の表舞台に立ってきたのは常に男性であり、女性は欄外に追放されていたという彼女の批判は、旧来の歴史観を根本的に転回させるものであり、フェミニズムにも多くの力を与えた。 スコットによる「ジェンダー」の定義とは、「身体的差異に意味を付与する知」である。 ○仮構の統一体 ミシェル・フーコーは、自身が同性愛者であることからも、「セクシュアリティ」について考究していた。 彼によれば、セックスとは社会が捏造する仮象である。 しかし、実はフェミニズムの中には、「やはり男には男性ホルモンの働きで、どうしても男性らしい考え方を持ってしまうのではないか」とか、「どれほどジェンダー概念を先鋭化させても、やはり結局、男には男の生物学的な身体があり、女には女特有の生物学的な身体がある。だからそれらが基盤になっているのではないか」というような不安に満ちた指摘も内在していた。 こういった、フロイトのような悪名高い「Anatomy is destiny(解剖学的宿命)」には批判を展開しつつも、やはり生物学的性差の上に文化的な性差が塗られるのではないか、という視座を「生物学的基盤論」という。 ○言語決定論 しかし、現在のフェミニズムの急先鋒に立っているジュディス・バトラーたちは、「生物学的決定論」を排して「言語決定論」へ向っている。 バトラーによれば、「ジェンダーは、セックスそのものが確立される生産の装置である」。 ここで大切なのは、ジェンダーが「エピステモロジー(認識論)」に立っているという前提である。 バトラーは、ジェンダーがセックスに先立つことを主張し、ジェンダーという言語実践が、逆にセックス化された身体を構築する、と述べた。 これは衝撃的な転回である。 我々はジェンダーとして生まれ、生きるのである。 つまり、認識論的に獲得された「差異」概念によって、いわばセックスという身体を後天的に得るのだ。 これは純粋意識による「虚構的直観」を真理と規定したフッサールの現象学運動からも、証明を与えることができるだろう。 我々はセックスに支配されていないのである。 セックスを生み出すのは社会であり、我々の性別とは常に既にジェンダーである。 モニク・ウィティグの発言を使えば、「二つのジェンダーは存在しない。あるのは一つ、女性であり、男性とはジェンダーではない」。 これは「イヴ原則」に依拠しているように思われる。 これまで主体がたまたま「男性」などと呼称されてきたに過ぎないのである。 ○gender indifference(ジェンダー非関与性) 例えば「美」「真理」「価値」の概念さえもが、男性によって構築されてきた可能性は高い。 フェミニズムとは、このようにあらゆる学問に内在するドメスティック・イデオロギー(男女の二文法による男性概念の主体化)を暴き出し、解体する巨大な最新鋭の現代思想上の戦略なのである。 「上記のまとめ」 上記でピックアップされた諸コンセプトを上から下へ順に読めばわかるように、フェミニズムとは「言語決定論」に立っている。 つまり、認識論なのだ。 そして、フェミニズムは「エクリチュール・フェミン(女のかきもの)」を取り戻すために、言語を身体と位置づけて新たなエクリチュールの可能性を考える。 また、フェミニズムは、社会全体が微視的なレヴェル、マクロなレヴェルにおいても、未だにホモソーシャル(男性社会の友愛に基づく、女性排除原理)が隠密裏で実行され、それがハビトゥス(社会規範)になっていると指摘する。 ホモソーシャルなハビトゥスにおいては、女性は「余白(パレルゴン)」扱いを受けてしまう。 このような男性原理の細胞的なレヴェルにまで目を向けた解体を目指すのが、フェミニズムなのだ。 女性自身の文学―ブロンテからレッシングまで 現代は女性文学のルネサンスである さて、次に本書であるが、これは既にフェミニズム研究における第一級の必読書である。 イギリスの文学史を、「女性作家」を中心にして全面的に系統付ける試みで、極めて画期的だ。 女性はどういう小説を書くのか? それを知りたい読者は、本書を読んで研究することは極めて有益である。 無論、全てを類型的に当てはめるわけではない、しかし、往々にして女性作家には時代に応じて共通の作風があるわけだ。 私が最も注目したのは、「女性が描く男性」である。 実は、女性作家が描く男性像には共通した特質が存在する。
無論、上記の類型はイギリスの一時代の女性作家に見られた特徴である。 フェミニズムの時代になると、更に興味深い特質が登場する。
フェミニズム文学においては、女性が無力化した男性を教え、導く、という設定が頻繁に登場する。 それまでの文学では、男性には「女性の自我が投影される」という現象が生起してきた。 つまり、女性が描く男性は、やはり「女性的」になるわけだ。 或いは、女性作家は「男性」に「自身の個性の逸脱した部分」を代補させる、という手段も常用していた。 リアリティーのない、幻想的な男性として、当時の男性評論家たちから批判されてきたのも事実だ。 他方で、女性は「無頼漢」的なアンチ・ヒーローをも描いた。 その特質は衝動的で熱狂的で、悪魔的であるが、にも関わらず女性を大切にして恋愛を繰り広げる、というものである。 こうした要素は無論、非現実的だが、作品としての魅力は、女性であるショウォールターも認めている。(『ジェイン・エア』のロチェスターがその代表例である) 私が本書を読んでいるうちに気付いたことは、著者が「純潔と母性愛」を女性性の文学的特質として評価している点である。 更に、「神父/牧師」といった「大文字の父の法」を超克する、女性が「真理」として描かれるというモチーフも重要である。 そこでは、女性は厳格さよりもいっそう「陽気さ」や「実際性」を持ち、また「結婚」の重要性はフェミニズム文学においては棄却される。 結婚とはフェミニズムにおいては女性の身体の拘束を意味している。 無論、「結婚して子育てする」ことをテーマにした作品もあるだろう。 だが、それだけで女性文学の本質を把捉したことにはならない。 女性は男性よりもむしろ「真理」に最も近い存在者であり、男性を教え導く木漏れ日なのである。 本書は更に読解が必要であり、根本的に女性文学を読む上での大切な視座を与えてくれる。 |