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01/24のツイートまとめ

afterfinitude01

昭和41年刊行の単行本版『沈黙』(新潮社)を極美本で入手。カバーは1595年に描かれた日本古地図(オルテリウステイセラ作)。 https://t.co/vronaEVpGH
01-24 08:01

RT @lunar_shirayuki: 正確には、踏絵はどうにか踏めたものの十字架に唾を吐けなかったために殉教していったモキチ
01-24 07:41

RT @lunar_shirayuki: 『沈黙-サイレンス-』、神と信仰を問う傑作だったが、日本の俳優陣が素晴らしかった。踏絵を拒んだ敬虔なカトリック信徒モキチ(塚本晋也)が水磔の刑で波にもまれて4日かかって絶命していくシーンには思わず泣いたし、井上筑後守(イッセー尾形)と…
01-24 07:41

ニーチェはそれすら可能だったと考えた点で新たなイエス像を展開している。「転びなさい」(身振りとして棄教せよ)——あの言葉がロドリゴに与えられた究極的な神の慈しみだった。この問題を神論としてではなく、悲劇的なロマンに仕上げたことが遠藤&スコセッシの最大の功績だろう。
01-24 07:40

重要なのは「形式的な撤回」であり、本質的な棄教ではないこと。身振りとしての「転び」。形式的な棄教、背信を乗り越えて人はまだ信じられるか、ということが『沈黙』の最大の主張ではないか。形式がいつしか本質に反転することなく、形式を繕いながら本質ではなお信仰を継続できるか、という課題。
01-24 07:36

「私の年齢」(私の現況)を「神の死の空気が常態化した社会」、つまり当時の弾圧下での日本だとすると、「棄教」(=転ぶ)における形式的な「撤回」を、イエスはおそらくしたであろうというニーチェの考えは、『沈黙』の主題を先取りしているといえる。
01-24 07:30

⑷『ツァラトゥストラ』第一部「自由な人」でのニーチェのイエス解釈。「もし彼が生き続けて私の年齢に達したなら、彼は彼の教えを撤回したことだろう。撤回をなし得るほど、彼は高貴な人であった」(手塚富雄訳)——ヘブライ人たちの「涙と憂愁」を知った「死へ憧れる者」としてイエスは理解される。
01-24 07:24

『沈黙』では「奇蹟」の不在がロドリゴ神父の死への恐怖(原始キリスト教の信徒からすればキリストのために殉教することは最大の名誉)によって覆われていたが、『バラバ』では「奇蹟」の実在が信徒の口から伝えられ、バラバの葛藤が描かれる。キリスト教を小説化する場合、むしろここが重要な指標。
01-24 07:20

⑶の観点の註釈として、同じキリスト教文学として『沈黙』の16年前に刊行されノーベル文学賞を受賞したラーゲルクヴィスト『バラバ』との差異に言及しても良いだろう。ここでは盗賊バラバの視座を通して神の「沈黙」だけでなく「復活」、「愛」、棄教ではなく「殉教の歓び」が濃密に描かれる。
01-24 07:07

『沈黙』でロドリゴが立たされた神学的なパラドックスを正当化すると、反殉教主義による世俗での延命の礼賛、及び形式的棄教の正当化に至らざるをえない。ゆえにカトリックの教義を守るならば、バルバロ側の立場(これに近い作中人物は踏み絵に転ぶことを禁じたガルペ神父)に立たねばならない。
01-24 07:00



遠藤&スコセッシ『沈黙』の場合、「復活」を棄却した上での倫理の可能性が問われているのであって、それはキリストが不屈の姿勢で説いた「永遠の真理」(使徒信条の「からだの復活」)と矛盾する。「形式的に棄教した上で成立する信仰」は、諸聖人の殉教への一貫した姿勢とは相容れない。
01-24 06:50

⑶神学的な観点。フェデリコ・バルバロ、アロイジオ・デルコル神父による遠藤周作への反論を組めば、スコセッシ版『沈黙』ではキリスト教の教えの核心である「復活」が矮小化されている点を指摘できる。仮に復活の否定の上に成り立つ人命救助であれば、そこに少なくともキリストの教えは成立しない。
01-24 06:42

⑵ロドリゴ神父の内面劇からの観点。この場合、道化的かつユダ的な機能を持つキチジローはロドリゴの抑圧されたものを解放する「分身」としての側面を帯びる。フェレイラはロドリゴの「予兆」。命を最優先させるために積極的に「転ぶ」(棄教)キチジローは倫理的に正当化されねばならない。
01-24 06:25

つまり布教する者は、その土地の文化・習俗・宗教について相当の理解をあらかじめ示した上で現地に赴くか否かを判断しなければならない(その為の事前調査も含め)。一部には受容されても結果的に被害者を増加させてしまったという歴史的事実が、作品の時代背景が示唆するひとつの教訓だろう。
01-24 06:16

スコセッシ『沈黙』はどの観点に立つかで解釈が多様化するだろうが、私としては少なくとも以下の4つを提示しておきたい。⑴島原の乱後、統治機構が目を光らせていた当時の社会システムの観点からすると、フェレイラ神父の救出活動がかえって二次的な人的被害を加速させた事実。
01-24 06:10

公開2日目に立川シネマシティで観たスコセッシ『沈黙』。映画としてはキャストの演技力の高さ、音響、演出——どれも見事という他ない傑出した作品。三時間ほどの長さも考え抜かれたドラマティックな構成のため全く飽きさせない。同時に神学的かつ… https://t.co/dPq66oiCKh
01-24 05:55

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