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01/29のツイートまとめ

afterfinitude01

井上筑後守が与えた「キリストを踏むか愛する者が死ぬか」の二者択一において、現代ではむしろキリストの顔を踏むことの方が容易いことを考えると、逆に「愛する赤子の顔を踏む」ことによって成立する宗教がテロリズムに接近する危険性を、遠藤は予兆として描いたのかもしれない。
01-29 23:53

遠藤周作が「あとがき」で述べるように、ロドリゴの最後の信仰がプロテスタンティズムに接近しているという点も留意しなければならない。ただ、カトリックの後輩として率直に言えば、この作家が読む者に信仰と倫理を問う点において、ある種の宗教的天才に近い才能を持っていた点は認めざるをえない。
01-29 23:41

転ぶか否かにキリストは関与しない。踏み絵の前で転ぶ、という物理的な行為こそがまさに形式であり、重要なのは転ぶか否かで懊悩して苦しむロドリゴの痛みを、キリストは「共に苦しむ」、あるいは痛みを「分有」するということだろう。これを見誤ると『沈黙』の力点がぼやける。
01-29 23:36

私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛みを分かつため十字架を背負ったのだ」(p224)。——受苦の分割が『沈黙』でのキリストの最大の教えであり、それが信仰の形式より優越するという点。簡潔に言えば、宗教的形式よりも人命を尊重する倫理を最優先させるということ。
01-29 23:25

二点目は『沈黙』におけるキリスト解釈が「他者の痛みの分有」を至高のものとし、そのためには制度的な宗教の破棄の是認も厭わないということ。スコセッシ版の踏み絵のキリストが語る場面は原作では以下のように表現される。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。
01-29 23:19

遠藤周作『沈黙』を考える上で重要なのは、これが本質的にイスカリオテのユダに対して主が言われた「去れ、汝のなすことをなせ」に対する無限に終わりなき解釈の過程として成立しているというのが一点。裏切る者の痛み、弱さにフォーカスし、その人間臭さを聖性に対置させることなく調和させる。
01-29 23:13

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