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03/10のツイートまとめ

afterfinitude01

神が原罪へ至る可能性を持った存在としてアダムを創造したことを、プログラムにおけるエラーもまたそのプログラムの内部に回収される(神は原罪へ至ることを初めから知ってアダムを創造した)、と考えるべきかについては、今読んでいるベーメの「新しい再生について」に解決の鍵があるかもしれない。
03-10 12:14

ライプニッツの弁神論に見られる「神は常に最善を選択する」についても考える必要がある。少なくともベルナルドゥスやベーメは地上を不完全なもの、聖人のような人ですら一日に「七度倒れる」ものと述べている。全き善が地上で既に果たされ、実現されていると考えることはできない。
03-10 12:04

注記すると自由意思と意志(voluntas)をベルナルドゥスはほぼ同義的に用いる。(「人間にあって自由意思と呼ばれるもの、すなわち人間の意志」)。そして恩恵に属す意志のない者について以下の主の言葉を引用する。「まことにお前たちに言う。私はお前たちを知らない」。(マタイ25:12)
03-10 11:52

これは生命の危機が及ぶ条件下でのみ一般信徒の信仰否認は正当化されると考えた禁教令下のペドロ・ゴメスの見解とは異なる。ベルナルドゥスからすればそれは命懸けで守り抜く「殉教」とは程遠いものなのだろう。「彼らはあなたがたの肢体を苦しめるが、意志を変えることはできない」。
03-10 11:34

遠藤周作『沈黙』の絵踏の問題。ベルナルドゥスは「強制」を受動(完全な肉体的強制)/能動(条件付きの強制)に区別した上で、信仰を否認すれば助ける絵踏は個人の自由意思のiudicium(判断)に委ねられるという。ゆえに「死ぬよりも偽ることを選んだペトロの意志は罪に定められる」。
03-10 11:27

デリダ『信と知』のreligio論の観点を組めば、自由意思は信仰の撤回(retractare)/再集合(relegere)が個人において常に「任意」であり、かつ特定の宗教に関わらず体系内の救済に「同意」することがまさにその内部において「救済」を生み出す、と解釈できるだろう。
03-10 11:11

「自由意思は救いを行う恩恵に同意する。つまり救われることによってその恩恵と協働すると言える。その恩恵に同意することが救われることなのである」。重要なのは必然性を免れた意志的同意(voluntas consensus)の概念で、これが自由意思の中核をなす。
03-10 11:01

非業の死を遂げた者を救い得なかった神を「背徳的」だと糾弾したメイヤスーへの最も的確な神学的応答は本書にあるだろう。「罪の責任はこの自由を与えた神にあるのではなく、それを濫用した者にある」。自由意思は善悪どちらも自由に選択できるところにその本質がある。そこに「責任」が生まれる。
03-10 10:55

最近の稲垣良典が重要文献として特筆しているクレルヴォーのベルナルドゥス『恩恵と自由意思について』(1127-8)読了。本書は悪の起源の問題を人間誰しもが持つ自由意思(liberum arbitrium)の観点から考察したもので、必然性や自由の概念に深く切り込んでいる。
03-10 10:42

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