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03/16のツイートまとめ

afterfinitude01

単なる物に洗礼を授けるべきかについては、霊が物質としての肉に降ったのである以上、物にも霊は容認されねばならない。次に物たちが十全に神の知解可能性を持つのであれば、彼らへの洗礼は認められる。来るべき人、異邦人とはまさにこのように人間とは構造的に異なる存在者を意味する。
03-16 21:08

動物や植物、あるいは物を人間の下位に置く者は聖書を字義的にしか読んでいない。彼らは人間ではなく「人間性」を持った存在者である。ヴァチカンが否定しようがしまいが、いずれ必ず自由意思に目覚めた彼らに洗礼を授けるか否かで重大な公会議が開催される。その時、人は彼らの敬虔さから多くを学ぶ。
03-16 20:55

言葉は意識から生まれるのではない。むしろ言葉がその人の意識を作り出し、パトスフォルメルを形成していく。したがって悲観的発言が人を悲観的にするのであり、その逆ではない。キリストを熱烈に愛し彼に全てを捧げる者は誰でも、いかなる時でも己を悲嘆せず、卑下しない。謙遜と自己否定は異なる。
03-16 10:59

洗礼を受けるためには何か特別な奇跡、いわゆる神体験が必要だと錯覚している者は、日々の些末な日常すべてが実は神の愛と恵みで満たされていることに気付いていない——啓示はただ一度、キリストにおいて生起したのであり、それが人間の模範として与えられたのであるから。
03-16 10:50

ニーチェの「神の死」とはキリスト教的なパラダイムの終焉を意味しているのであり、文字通りの意味でキリストの死と同義ではない。デリダの痕跡やレヴィナスの他者が神の死後におけるreligioの可能性を開示したように、死して喪われたものは次の形式において再現前する。
03-16 10:44

神の死を宣告した後も人知れずカトリック教会に足を運んでいたニーチェは、私の高校時代を救った一人の英雄でもある。ニーチェからキリスト教に目覚めた者において、神の死とは出発点、問いの始まりそれ自体だった。それは「涙脆い思想家しか読めなかった」若年期のデリダのニーチェ観とも繋がる。
03-16 10:43

文学はけして人を救済しない。それは救済の可能性を示唆、暗示、予兆することはできるが、一人の悩める人に真に寄り添う必要のないものとして生産される。人を真に救済するのは、その人個人が自らその教えを知り、咀嚼し、実践する宗教的な過程の中でしかない。
03-16 10:25

洗礼にまで与る意志のない人が読む聖書は、知識にはなってもキリストが重視する霊的な糧とはならない。長らく未受洗だった加賀乙彦に対して遠藤周作が「無免許運転のようなもの」と戒めたのは厳しさからではなく、むしろそれによって自覚的になる恩寵の豊かさゆえだったのだろう。
03-16 10:19

地上に偽の天使が多い中、クレルヴォーのベルナルドゥスのように霊的な次元で真に天使的と言えるような聖人もいる。洗礼を受けた人ほど、世間が誤用する単なる美的なメタファーに過ぎない「天使のような」という表現には敏感なもので、その通俗的な理解からは距離を取る。これは信じる者の品位の問題。
03-16 10:14

RT @momokanazawa: カタルーニャ美術館にて。同じく聖アントニウスの誘惑場面。顔のない悪魔がコワイ。 https://t.co/QZOA1oAeyr
03-16 07:06

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