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03/26のツイートまとめ

afterfinitude01

lassen,laisse,laisserは同じ意味を巡るのだが、ハイデガーはエックハルトに言及した『放下』の中でGelassenheitを「物が物として生起する」位相への接近として解釈する。肯定も否定もせず、大自然の草花も大都会のビル群も全て同じオブジェクトとして委ねられる。
03-26 20:01

続いて後期デリダの代表作『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』を読み始めたが、驚くべきことに前半の創世記論で、神はアダムを「放っておく」、動物たちを名付ける自由を「委ねる」の部分をデリダはlaisseで表現している。これは『名を救う』と繋げて読むと面白いことになりそうだ。
03-26 18:08

『名を救う』で論じられるP.S.(追伸)の概念はクリプキのウィトゲンシュタイン論やルーマンとも関係するだろう。つまり、行為は観察によって「事後的に」意味を持ち、行為の瞬間には不確定に留まるのである以上、あらゆるécritureは本質的にポスト・スクリプトゥムである。
03-26 16:48

アウグスティヌスの『告白』をP.S.の代表例として挙げるデリダのセンスには本当に魅了される。神はアウグスティヌスの告白内容を既に知っているので、彼は実は神に向けてというより、明確に「読者」に向けて書いていた——すなわち告白の言語化は常に既に「追伸的」であらざるをえない。
03-26 16:04

この観点で「神は与え、奪う」のような、贈与が同時に剥奪の次元と結合する旧約的な表現も解釈できる。「不可能なところへ赴くこと、それはあなたに可能だ」、「私とは私であり、私ではない何かである」、「神は愛であって、愛ではない」etcも否定神学的な文彩として神を指示し、かつ指示しない。
03-26 15:52

デリダがヘーゲルの弁証法を批判的に相続するかたちで展開する否認(dénégation)は文学的にはブランショの文体——というよりジャベスにも通底するユダヤ的な砂漠(désert)の思考を地下水脈にしている。単なる否定/肯定の対立でなく、否定がそのまま肯定に等しくなる特異な運動。
03-26 15:40

「全てをそのままに(lassen)しておかねばならない。全てのあるもの(quelque chose)を神の愛によってそのままにしておかねばならない」(p94)——たとえ母が、私が彼女の息子であることを忘れたとしても。特定宗派への「帰属なき帰属」を表明する彼の倫理感の深さを感じる。
03-26 15:26

後期デリダがハイデガーも注目したエックハルトのGelassenheit(放下)の概念にこれほどシンパシーを感じていたことを知ったのも収穫だった。この語は動詞lassen(捨てる、そのままにする)の過去分詞から作られた名詞形で「平穏さ」とも訳される。放棄することは平穏さを生み出す。
03-26 15:13

『名を救う』はデリダによる神秘主義論、神論としても注目される。シレジウスの他、エックハルト、クザーヌス、ベーメ、タウラー、ディオニュシオス・アレオパギテス、ロイスブルーク、アウグスティヌス、プロティノスに目配せが行われるだけでなく、ハイデガーやマリオンについても言及される。
03-26 15:07

息子の名を忘れた母ジョルジェットの看病をしつつ『ケルビムのごとき旅人』を読んだ後期デリダのシレジウス論『名を救う』読了。最近読んだ中では『信と知』と並ぶ好著。否定神学の運動であるapophase、dénégation、余白と並ぶpost-scriptumなど重要概念が展開される。
03-26 14:58

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