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03/27のツイートまとめ

afterfinitude01

@contractio @cavochat 『名を救う』ではécritureは事後的なもの、つまりポスト・スクリプトゥムのようなものと述べていますが、『グラマトロジー』では書記素以前に「音声」ないし棒で輪郭をなぞる「身振り」が起源の同一性を破砕させるとも述べています。
03-27 18:43

@contractio @cavochat 事後のみではない根拠は以下です。行為が事後的にのみ意味を持つ場合、解釈が行為の起源に策定されることになりますが、これはあらゆる起源を別の何かによるtrace(痕跡)、あるいは再現前化とみなすデリダの論旨と矛盾します。
03-27 18:36

@contractio @cavochat 返信ありがとうございます。事後説が成立するか否かは行為主体を人間/非人間的なもののいずれに設定するかで更に議論が必要ですが、クリプケンシュタイン的な解釈主義に立つなら事後的に成立可能、デリダの文脈に依拠すると「事後のみではない」と。
03-27 18:30

@contractio @cavochat デリダの「代補」(supplément/supply)を緩用すると、起源は常に廃墟化して到来するので「事後性」はまさに起源に滑り込むことになるかと。つまり行為が事後的に「のみ」意味を成すという見解を横滑りさせることが可能だと思います。
03-27 06:08

@contractio @cavochat 補足ですが、後続する行為bが先行する行為aの「解釈」であると仮定し、更にécritureを「行為」とみなした時「書きながら同時にその文を解釈し、更にその解釈が後続する書く行為を連鎖させる」とみなせるため、行為の事後生成は成立しません。
03-27 05:40

@contractio @cavochat 前傾論文によると「行為の事後生成説」は、クリプキのウィトゲンシュタイン論と日本のルーマン研究者の一部に見られる解釈であって、ルーマン自身がそう考えていたかについては更に再考の余地がある、という前置きであったと思います。
03-27 05:19

@contractio @cavochat はじめまして。御二人の御意見、興味深く読ませていただきました。私の先の発言の典拠は、おそらく既に御存知だと思われますが北田暁大「他者論のルーマン――経験的学としての社会システム理論」(『現代思想』2017.3)になります。
03-27 05:18

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