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04/24のツイートまとめ

afterfinitude01

ヴァールブルクのpathosformelの概念も、実質的にギリシア的、異教的な身振り言語がルネサンスのキリスト教美術において相続される「体内化」の運動を複数の例から暴き出している。ディオニュソスはアポロンと対立しているのではなく、交叉配列的に共存し、互いを代補する。
04-24 21:28

キリスト教を愛に満ちた調和として捉えることは本質的ではない。むしろ逆であり、パトチュカ/デリダが繰り返すように古代祭儀におけるダイモーン的なものを「体内化」している。換言すれば、ダイモーンは抑圧されることによって次の形式で再現前する。
04-24 21:19

RT @k2gabriel: メシアンは従来のカトリシズムを表す音楽とは、まったく違った音楽語法で自らの宗教的境地を表現した。それはどこに根差すものかといえば、カトリシズムという言葉以前の宗教観でもある様な気がしている。聖母マリア以前の、世界を木として、ひいては自然に宿るコスモ…
04-24 21:03

theōsisについては久松英二「ギリシア教父における神化思想」(『中世思想研究』58)が体系的記述に富んで非常に有益。ちなみに、著者の『祈りの心身技法——一四世紀ビザンツのアトス静寂主義』は最近の私の祈りの諸実践におけるバイブル的存在でもある。宗派を越えて読まれるべき名著。
04-24 20:45

コーランの場合、アッラーは人と絶対的に隔絶するので、同じ啓典宗教でもデリダのコンテクストで「より非対称的」だと言える。人が神に与えるより常に豊かなものを、神は贈り返すという点での「対称性」破綻であれば同意するが、明確にキリスト論的な言及に触れないので駁論する余地がある。
04-24 20:36

デリダが以下のように解釈するのは、他者への責任がいかなる超越にも帰属せずに成立するとみなす必要があるからだろう。それは無論必要だが、議論の弱点を突かれないためには、補注などでキリスト教神秘主義の系譜では場合が異なる点にも言及せねば。そもそもキリスト教のどの学派を指しているのか。
04-24 20:24

『死を与える』においてデリダは神と人の関係を絶対的な「非対称性」として捉えるが、これは少なくとも東方キリスト教における「神化」(theōsis)の概念と相容れない。オリゲネスもキリストを内に宿すことと、キリストの人間化(受肉)を「聖なる交換」として捉える。
04-24 20:19

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