† キリスト教神学 †

ジェノヴァのカタリナ『煉獄論』

中世思想原典集成〈15〉女性の神秘家中世思想原典集成〈15〉女性の神秘家
(2002/04)
上智大学中世思想研究所

商品詳細を見る


煉獄とは何か?

このブログを参考してくださっているユーザーで、どれほどキリスト教について関心のある方がいるのか解らないのだが、本書に収録されているカタリナ(Catharina de Genua/1447~1510)の『煉獄論(Trattato del purgatorio)』には、多少の好奇心が沸くのではないだろうか?
煉獄というのは、簡単にいえば、「地上で汚れてしまった魂を、天国へ向わせる前に、洗浄するための浄水場」である。
これほど適切な定義は他にないと断言していい。
繰り返すが、ジェノヴァのカタリナがただ「浄水施設」という語彙を持っていないだけで、述べていることは実は「下水処理論」なのである。

神は人間に属するものを滅し、煉獄はそれを浄化するのである。



煉獄というのは、いわば巨大な機械のような空間で、天国へ行くまでのプロセスに存在する。
無論、カトリックである私は、「煉獄」の実在を信じなければならない。
ただ、カタリナという女性はなかなか「怖い話」が好きだったと見えて、「煉獄では地獄に似た激痛が伴う」などと我々を恐怖のどん底に叩き落している。
けれど、カタリナの定義によれば、「煉獄での苦しみ」は、「神の意に適さないこと」を魂が犯すことで生起するので、敬虔に生きている信徒であれば、煉獄での苦しみは大したものではない。

おそらく、蚊にさされて腕が「痒い」程度の浄化で済むような信徒もいるだろう。
そういう人は安心して本書を読めるのだ。

ただ、カタリナは煉獄を語る上で相当気合を入れていて、「罪の錆」は、「大いなる神の火」によって「焼き尽くされる」などとイメージ力豊かに述べている。
つまり煉獄には「神の火」が存在し、魂で汚れている部分、「悪玉菌」をそれで燃焼させるというわけだ。
私が「煉獄機械」という表現を用いるのは、このキリスト教的な「亜世界」が、実は高度な下水処理施設としてイメージされてしまう、ということに基づいている。
おそらく煉獄には「罪の遠心分離機」が存在し、綺麗になった魂は、「天国」という受け皿へと愉快に滑り落ちていく――しかし、カタリナはあくまで徹頭徹尾真面目である。

煉獄にある魂は苦しみだけを持ち、罪過を欠いている。



この謎めいた一文は、どこかカフカの『審判』を感じさせた。

※ウィキに概説が存在する。

煉獄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


煉獄煉獄(れんごく ラテン語:purgatorium)とは、古くは「浄罪界」とも訳され、主にカトリック教会の教義において、死後地獄へ至るほどの罪はないが、すぐに天国に行けるほどにも清くない魂が、その小罪を清めるため赴くとされる場所である。ただ、第2バチカン公会議以降の教会の現代化の流れにより、現代のカトリック教会で煉獄について言及されることはほとんどない。


「概説」

地獄は救いの無い場所、天国は罪の一切無い場所と定義されるが、煉獄はキリスト者として罪の贖いを受けて救済を約束されていながら、小罪および罰の償いが残っているため、浄化を必要とする者のためにある場所と考えられている。聖書に具体的な記述があるわけではないが、『マタイによる福音書』12章32節において、後の世で赦される可能性が述べられていること、および、『マカバイ記』2の12章43節において、罪を犯した死者のために執り成しの祈りを認めていることを根拠にしている。煉獄における救済は、聖母マリアおよび諸聖人の執り成しによるとされる。

カトリック教会ではこのような煉獄の死者のために祈りなどを行う伝統があったが、教皇の免償の権威が死者にも及ぶのかという問いをマルティン・ルターが投げかけたことが宗教改革の発端となったという歴史的経緯から、プロテスタントの諸教派は煉獄の概念を否定した。

また、正教会にも死者のために祈るパニヒダという伝統があるが、聖伝に記述が無いとする理由から、また、陰府と天国の間には大きな淵があるという見解から(『ルカによる福音書』16章26節)、正教会ではそもそも煉獄の存在を認めていない。


「関連項目」

神曲(ダンテ)
地獄 (キリスト教)
黄泉
交響曲第10番 (マーラー) (第3楽章の副題が「プルガトリオ(煉獄)」)

関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(-) | CO(-) 



Back      Next