† 小説草稿 †

幽霊






 周一はもうずいぶんと、夜の街を歩く習慣を持つようになっていた。深夜零時に仕事が終わる彼の場合、帰宅して遅い夕食を済ましてからシャワーを浴びてベッドに潜り込むと、もう既に真夜中の三時半から四時頃になっていることが多かったのである。平日の水曜日と日曜日が、彼のささやかな休日だった。日曜日は多くの場合、同棲している花梨と美術館へ行ったり、あるいはもっと近場でのんびり過ごすことも多かったが、水曜日はいつも一人だった。それも、日頃の起床時刻が遅いこともあって、いざどこかへ出かけようとすると既にカーテンから夕陽が射している場合も多く、最近ではなかなかこの曜日にどこかへ出かけられずにいたのである。仕方なく、周一は読書や映画を観たりして一日が過ぎるのを待ったが、夜頃になると次第にどこかへ出かけたくなってくる。大人しく椅子に座っていると、身体のどこかにフラストレーションが蓄積されて、今度は走ったり泳いだりしたくなってくるのだ。それでも、まだ一月の下旬とあって外は寒く、なかなか夜中にランニングする気力を持てずにいた。だから周一は最近では、ぼんやりと顔に空虚な穴を開けた亡霊のように、閉店して数時間は経った少し遠いスーパーまで、ひたすら歩くようになっていたのである。
 夜の散歩は孤独だった。だが、周一は実はそんな寝静まった夜の街の静寂に、一方では惹かれてもいた。玄関の扉を開け、マンションの門を潜ってから駅前の通りを抜ける。少しずつ坂道になって、やがて川幅五メートルほどの細い小川沿いを進んでいく。駅前とは違って、そこは裏山に面していて街灯は一つも存在しない。そんないつものルートを、その夜も周一は手を摩りながら、こつこつと歩いていった。時折、ここは全く知らない街だという気がしてくる。一年前はまだ大阪で暮らしていた周一にとって、神奈川と東京の県境にあるその街は、やはりまだそこかしこに真新しさと、それゆえの小さな不安を孕んでいたのである。夜の道ほど、そういった感覚が強まってくる。あたかも、新しくやって来た新参者を快く、そして穏やかに迎え入れようとした土地が、太陽の光を失うと、途端によそよそしい冷たさを垣間見せ始めたかのように。だが、周一は夜のこの誰一人いない山と川だけの道、この寒く暗い道には、独特な温かみがあるような気配を感じてもいた。それは詰まるところ、この一人寂しい夜の散歩といえども、マンションまで無事に帰ってくると、ベッドではすやすやと寝息を立てている花梨がいて、隣にそっと滑り込むと、そんな彼女がおもむろに温かい腕を絡ませてくることをあらかじめ予感していたからだった。いわば、花梨と共にこの見知らぬ街で暮らしているということが、そして彼女の肌の温かさが、直接的に夜の冷たい小径にさえ温暖な色合いを添えていたのである。
 それゆえ、夜の散歩は孤独でありながらも、心のどこかでは愉しいものでもあった。安心感さえ、そこにはあった。周一は山沿いの道の半ばを過ぎると、この山の中にある神社へと続く鳥居の前までやって来た。山の入口ともいうべきそこには昔から湧き水が溢れていて、近隣の人々もペットボトルを持ってやって来る。湧き水が出ている岩の傍には小さな鍾乳洞があって、左の穴から入ると、隣り合う右の穴から出られるような半ドーナツ状の洞窟になっているそうだ。周一は自分では鍾乳洞に入ったことはなかったが、日曜の昼下がりにここを花梨とスーパーへ行くために散歩していると、親切なおばさんが教えてくれたのである。さすがに暗闇の鍾乳洞は視界が闇そのものになって恐ろしく、周一は鳥居の前をただ通り過ぎることにした。少なくとも、あまり視線を鳥居の奥にも向けずに流すような感じで通過するつもりだった。
「あの……すいみません」
 不意に鳥居の奥から、か弱く細い女の声がした。驚いて見てみると、木々の合間から洩れる月光に照らされて、湧き水の前に白い着物を着た三十代前半ほどの女性が立っている。その眼差しは、こちらに何か助けを求めるような切実な様子だった。纏った着物には桜が斑に刺繍されていて、女性の容貌も目鼻立ちが整っており、どこか端麗である。周一はやや警戒しながらも、なぜかその時、彼女の眼には邪なものなど無いような気がしたのだった。
「どうしましたか?」
 周一が親切にそう尋ねると、彼女はこくりと頷いて、一歩歩み寄った。

 
 
 











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