† 小説草稿 †

西海岸




 何と言えばいいのか、僕には最早わからない。僕がヘレンを愛していないことは間違いない。ただ、打算と妥協の産物として今彼女と暮らしているだけなのだ。年増のヘレンはもうけして美しいとは言えなかった。そして年下の男を持つ女にありがちなことだが、彼女もまた僕を少年のように扱うことで薄っぺらな愛を見出しているかのようだった。二人で生活していると、ほんの些細なことで冥府の扉が開いてしまう。一人なら、もう少し楽に過ごせているのかもしれない。ありふれた口論が、僕の心を蝕んでいくようだ。
 三日前、ヘレンは深夜に僕を起こした。バスタブの鏡に幽霊が映ったというのだった。僕は起きて一緒に確認しに行ったが、そこにはありふれた鏡に疲れ果てたような二人の姿が虚ろに映っているだけだった。幽霊とは、自分自身のことではないのだろうか。
 こういう状態が長く続くべきではないと感じ、僕は夏に故郷のサンフランシスコに帰った。夏の間だけ、普段はワシントンにいる妹も、ケンブリッジにいる弟もこの海沿いの街に帰って来る。太平洋に面したゴールデンゲート・パークの近くにあるオーシャン・ビーチは、僕が昔から故郷の中でも最も自分の居場所だと感じられるところだった。一人で子犬を連れて波打ち際を歩いていると、幸せとは何なのかと考えずにはいられなかった。
 ニューヨークに昔から憧れを感じていたのは事実だ。実際、ニューヨークと田舎の西海岸に存在する美術館などの文化施設の数を比較しただけでも、どちらが知的に充実しているか一目瞭然だろう。ニューヨークは確かに人を飽きさせない。だが、これはパリや東京などの大都市にも言えることなのだろうが、そこは人間を疲れさせる。全てが窮屈で、どこか居心地が悪い。恐ろしく洗練されて充実しているはずなのに、心の中心に曰く言い難い空虚が開いていく。ニューヨークは僕を含む多くの人間を世界中から招き寄せ続けているが、結局、そこで暮らせるのは十分に何かを諦め切れた人間だけなのではないだろうか。実際、僕はここへ来てから、田舎にいた頃は橋の下でもよく書いていたはずの詩をあまり書かなくなってしまった。
 僕は十七歳の時にW.B.イェイツの『塔』という詩に出会って以来、今でも詩人を目指している。残念なことに、家族の誰一人として僕が真剣に詩人になることを応援している人はいなかった。ヘレンと同じで、弟も妹も毎日忙しく働いている。妹のキャサリンはロサンゼルスの大手化粧品メーカーの営業をしているし、弟のトムはケンブリッジに留学して、今年からロンドンの会計事務所で働きながら公認会計士を目指している。僕よりも二人とも年下のはずだが、いつの間にか大人になってしまった。ヘレンはといえば、ニューヨークの金融機関で働いている。僕が彼女と暮らし始めた時に、彼女の経済的なステータスのことを考えなかったといえばそれは嘘になるだろう。正直に言えば、僕はヘレンほど大都市で生きることに慣れた、適応能力が高く、安定した収入を維持し、余暇にはちょっとした小旅行気分でギリシアやイタリアに出かけられる女性の傍にいれば、少なくとも生活に困る必要はないと見積もったのだ。そこには僕の打算があったが、ヘレンはおそらくそのことも薄々感じ取った上で、僕との「平穏な生活」を望んだ。ヘレンは僕を今でも愛しているだろう。そして僕も、彼女を愛していないわけではない。ただ、ニューヨークは僕を恐ろしく疲れさせるというだけなのだ。
 学生時代の僕は、それなりに成績が良かった。両親のおかげで、若い頃はほとんど何不自由なく生活していた。父は西海岸の諸都市一帯に店舗を持っている自動車会社の社長だった。住んでいる場所はサンフランシスコだったが、ヨーロッパに行きたいと僕が気紛れに口にしただけで、父は航空チケットを手配してくれたりした。一番驚いたのは、僕が高校を卒業する三ヶ月前に父が祝いのプレゼントとしてプレミアの付いたカブリオレを買ってくれたことだが、さすがに母は甘いと父を戒めていた。ケンブリッジ大に進学できたのは、紛れもなく両親のおかげだと思う。ただ、僕には何も学びたいものがなかった。父はどうやら、僕を次期経営者にするために経営学を学ばせたかったらしい。長男だから、事業を継がせたいと考えるのは当然かもしれない。だが、僕はイェイツが好きだった。彼の詩のセンス、言葉の選び方の一つ一つ、その神秘的でクールな理性に魂の底の底まで惚れ込んでいたのだ。僕からすれば、経営学部で教わる全ての理論など、イェイスの詩の一文字にすら値しないものだった。父はその反対に、詩などトイレットペーパーに書き殴って五分後には流してしまう程度の、青臭くて何の利益にもならない紙切れ同然だと考えていた。僕と父にはこういう違いがあったし、僕自身もやりたくもない学問のために青春を台無しにするつもりもなかった。
 僕はハーヴァードをわずか三ヶ月で退学した。その時付き合っていたメアリーという女子大生が、コインが裏に出たら父親の仕事を手伝って、表が出たら私と結婚してちょうだい、という不思議な二者択一を迫った。だから僕はポケットに入れていたチョコチップクッキーを取り出して、几帳面にビリヤード台の上に垂直に立たせたのだ。
「俺は表にも裏にもならない」
「どうして? それはコインじゃないでしょう? ただのクッキーじゃない」
「ただのクッキーじゃないさ。これは俺だよ。俺は立ってる。俺はクッキー一枚でも立てるんだ」
 僕はそう言って、三時間後にメアリーと別れた。なぜ三時間後かといえば、ビリヤード台が幾つも並んだその狭いクラブでクスクス子猫みたいに微笑んでいたキャシーという女を、クッキーを立たせた三時間後に抱いたからだった。キャシーはグラマラスなのに足が長い実に良い女だったが、臍の下にDESTROY!!!という入れ墨を入れて自慢してきた時は、さすがにセンスがないと感じてしまった。
 










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