† 小説草稿 †

海景





 荒削りの真昼の岩礁に、その場の光景よりもなお明るい強烈な極彩色のものが覆っていた。嘆きだろうか。おそらくは、それは極彩色に至るまでにすっかり解放的で、かつ人工的な不穏さを宿したところの嘆きであるに違いない。そこに置かれたものが嘆き、あるいは死の予兆であるとしても、彼らは波飛沫を物ともせずに燦爛たる陽射しの下でいっそう隆々と屹立している。岩はなぜこれほど破滅的なのだろう。あたかも腕利きの陽焼けした漁師たちの強靭な二の腕のように、岩はそこで再現なく美しく濾過され続けている。Jは岩に見惚れていた。同時に、岩のおそらくは核心に位置するもの――この世界のいかなる表象からも脱落した、物と物のあわいにのみゆらゆらと揺らめいている何らかの感覚――それを内心に引き付けようとしていた。彼は裸である。明朝からひたすらこのすべすべした岩に座していた。Jは期待している。このありふれた素っ気ない、すべすべとして寡黙な岩こそが新しい世界の膜を露わにするのだと。
 おいおい、おまえはそんなところで日がな一日何をするつもりなんだい? 風邪をひくぞ。どれ、素っ裸じゃないか。いつまでもそうしているとじきに嵐に吞み込まれちまうだろうに、などと地元の屈強な漁師たちが口々に囁き合っても、Jの耳には表面しか届かない。膜なのだろう、彼にとって世界とはいつまでも底を見せないおっとりと静かな水面の映像に過ぎないのだろう。漁師たちの像が、音が、鼓膜の上をただ滑っていく。何も残らない。たとえ残ったとしても――顎が外れるほどの大きな欠伸をしながら――どうせ明日には忘れてしまうような些事であろう。Jは立ち上がる。尿意を催した彼は陰茎の根本を掴んで海に向かって英雄的に両足を悠々と広げながら放尿する。小便になって海水へ還っていくJの尿は、陽光を孕んで黄金色の弾け狂う砂金の粒そのものだった。Jは大きく伸びをする。水平線の奥に船はない。雲もない。ただ眼前に岩、そして遥か涯てしなく継続する海面。海鳥もいない。漁師の黒い影たちも霧状になって消えてしまった。もう世界には誰もいない。Jはゆっくり腰掛ける、相棒の上に。その寡黙な岩の表面に。
 あまりにも単純だった。あまりにも海は単純だった。岩がある。おそらくは呼吸しているのは岩だった。血脈は見えないが、岩たちは何ともいえない女々しく醗酵した潮の匂いを放っている。嗅ぐと安堵する。鼓動が緩まる。血が清潔に、さらさらさらさらと流れ始める。Jは顔にわずかな笑みを浮かべた。そして、私は生きている、と囁く。即座に背後にいた海鳥が反応する。彼は一歩後退し、また近付いた。海鳥も生きている。岩も生きている。多量の水の塊も生きている――そしておそらくは、私もまた生きている。Jは少しずつ、この確信の感覚を強めていこうと企図していた。今あるのは自分の汗臭さだけだった。つまりは、現在にこの汗が付着しているのであって、過去も未来も一切は虚妄であろう。汗はただ今のみに付帯していた、逃れようもない世界の肉感として。そして今は、海鳥が視界を占有する。嘴のバナナ型のまぬけさ、先端の白さから眼球に近接するにしたがって少しずつ黄色くなっていく繊細な色彩美、目を見張る羽毛の純白の輝き、嘴のようにまぬけな鳴き声。汗、陽に焼ける肌の焦げ臭さ、ひりひりと痛い感じ、海鳥の右往左往、波音、波音、絶え間ない波音……平穏である。世界を生きるにおいて、何も心配することなどなかった。ここはこれほどまでに平穏であり、楽しみとエナメルのように張り詰めた始原的な生命力と、何もないという豊かさで充溢していた。
 羽搏いた――突然、晴天の雷撃のような鮮烈な驚きの感覚を伴いながら、海鳥が上空へと羽搏いた。その瞬間、Jは自分の生においてなにか決定的に重大な出来事が生じた、と直感した。海鳥が空に描いた飛行軌跡に目を凝らす。彼は小さな小さな離れ小島の椰子の木の上に降り立った。ポツンと、海上に小顔だけ突き出している奇妙に丸い小さな島。前景の海原よりもさらに西、そこに太陽が沈み込んでいく遠い入江の向こう側に、その島が隠れていたのだ。Jは立ち上がった。あそこまで行こう。あそこまでなら泳ぎ切れる気がする。そして、あそこまで泳ぎ切れたら私は世界の膜を剥離させることができるだろう。裸形の命に巡り合えるだろう。あそこまで泳いでみたい。海鳥を目印にして、全力でここからあの小島まで泳いでみたい。そうすれば、私は生きている、というこの感覚をより確信に近似させられるだろう。幸い、海鳥は飛び立つことなく椰子の木で安らっている。あたかもJを待っているかのように、首を慌ただしく右往左往させることさえやめて彼自身の、おそらくは故郷の巣の兄弟たちを夢想しながら。
 







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