† 小説草稿 †

波打ち際





 姫埜は誰もいない早朝の波打ち際を歩いていた。
 ここへやって来た始まりは、郵送されてきた古めかしい焦げ茶糸のトランクだった。差出人不明で、中には小さなメダイと、あるホテルの宿泊券のみが入っていた。メダイは姫埜が二十歳の頃、カトリックで洗礼を受けた時に与えられた洗礼名の幼きイエスの聖テレーズを彫った銀製のものだった。楕円形の縁には薔薇が飾られ、テレーズはやはり薔薇を咲き乱せた十字架を慈しみ深い眼差しでしっかりと抱き締めている。ルーペで丹念に観察してみると、花弁の謎めいた銀河のような構造、テレーズの修道服に寄った美しく細やかな襞、薄らと微笑んでいる唇の立体感など、実に精巧な彫刻技術が施されていることが判った。宿泊券は七月下旬から八月いっぱいまでの期間が対象で、その分の宿泊料は既に御支払い頂いたというホテル側の印章まであった。
 何かの巡り合わせだろうと思い、あまり深く考えずに姫埜は東京を飛び出した。新幹線で三、四時間、ローカルな路線で更に小一時間、更に閑散とした黄色の小型バスで十五分ほどかけると、眼の前には宿泊券の裏に映っていたカラープリントのホテル写真とそっくり同じ実物が広がっていた。三十代の会社員の男性が、女性を連れて避暑地に数日間滞在する場合、往々にしてホテル選びに含むポイントの幾つかがホテルのロビーから窺えた。つまり、快適さと、ほどよいラグジュアリー感がそこにはあった。けして高級過ぎることもなく、かといって駅前の寂しさに同調するような陰りを感じることもなかった。広いロビーの天井にはシャンデリアがかけられ、黒光りした丈夫なソファーには身なりの良さそうな壮年の夫婦や、眼の醒めるような白いドレスを着たブロンドの女性が、フロントにフランス語で話しかけていた。姫埜が宿泊券を渡すと、奥から口髭の逞しい凛とした眼のダンディーな支配人が現れた。
「篠崎姫埜様、ようこそ当ホテルへお越し下さいました。一同、心から御待ちしておりました。さあ、部屋へ御案内いたしましょう」
 棒読みになれば恐ろしく冷淡にも感じられるこうした感謝の言葉を、支配人は実に真心を込めて鄭重に、しかも女性を扱うのが巧みそうな極めて優雅な調子で軽やかに口にしてしまったので、姫埜の爽やかな気持ちになった。用意されていたのはホテルの最上階のスイートルームで、インテリアは上品な黒と茶を基調としたイタリアン・モダンだった。広さも申し分なかったが、支配人がカーテンを自動で開けた時、そこに広がる美しい海岸の景色には思わず息を呑んだ。長期休暇を出してここまで来て良かったと、姫埜は実感することができた。
「一つ御聞きしても良いかしら?」
「なんなりと」
 支配人は夏の煌めくような陽を瞳に湛えて、笑顔でそう歌うように返した。
「予約者は誰なの? 私はここに招待されたけれど、誰の贈り物かまだ知らされていないの」
 姫埜がそう言うと、支配人はなぞなぞ遊びをする少女をあやすような軽快な微笑を浮かべた。
「若い男性の方でございました。ただ、その方からの伝言で、けして名は明かすなと。貴女に尋ねられた場合、夜の虹が見える丘で、とだけ言えばおそらく御理解頂けるかと申し添えられました。同性の私ですら眼の醒めるような美しい青年でございましたね」
「そう……。どうもありがとう。この土地は判らないことが多いから、また聞きたい時は教えてね」
「光栄でございます。喜んで」
 支配人はそう言うと、テーブルの上にルームカードを置いて静かに立ち去った。一人になると、姫埜は不安げな面持ちでカーテンの傍に飾られている白薔薇に寄り添った。ポケットからメダイを取り出し、平穏さに守られている聖テレーズの御顔をじっと見つめた。夜の虹が見える丘……。支配人が口にしたその言葉が、否応無く姫埜の意識を薄闇で包み込んでいた。それは、姫埜が高校生の頃に付き合っていた、将来を誓い合った恋人が誕生日に贈ってくれた詩の一節だった。全文はもう忘れてしまったが、ロマン主義的で牧歌的な文体で、自分との相思相愛を謳い上げたものだった。彼と初めての夜を過ごしたのも、あの詩の綴られたカードを手渡された日だった。その頃、姫埜は現在とは違うティーン系のファッション誌でモデルをしていて、彼もやはりヘアカタログやメンズファッション誌の常連だった。二人とも仲が良く、時には些細なことから口喧嘩になったが、決まって仲直りする度に以前より深い愛で結ばれていた。あの頃は、あたかも楽園にいるかのようだった。だが、付き合い始めて一年後、彼はバイクを走行中に大型トラックが巻き起こした凄まじい事故の犠牲者となった。彼は安全運転だったがトラック側は泥酔しており、結果的に通行中の親子連れを含めて三人の命が一瞬で終わってしまった。
 彼が死んだ日以来、姫埜は一度も真実の恋愛を経験してはいない。両親ともに無宗教だったにも関わらず、姫埜をカトリック教会へ導いていったのは、実は彼の死だった。今でも、姫埜はエデンの園の情景を彼がいつも隣にいた高校時代の輝きに重ね合わせることがあった。神は彼を死なせることによって、自分を洗礼へ、神の愛を深く気付かせる道へ誘った。だが、失われたものは二度と取り戻すことはできなかった。あたかも自分の注意不足が、蛇に唆されたエヴァの口振りをなぞるように、彼のいなくなった現在が原罪後の孤独と憂愁に満ちた世界であるかのように感じられる。虹は夜には見えない、それと同様に、彼がラザロのように蘇生することもないのだ。にも関わらず、どうして死んだはずの彼からこんなホテル付きの休暇が送られてきたのだろうか。彼は七年前に既に帰らぬ人になっている。そして、あの二人だけの詩句のフレーズを共有していたのは、この世界で彼だけだった。彼を演じる第三者がいたとしても、この詩句が宿す濃密な意味を暗喩として扱える者などいないはずだ。だとすれば、いったい誰がこのホテルを予約したのだろうか。夜の虹が見える丘で彼が待っている約束の日は、もう夢物語になって久しいというのに……。
 そんなことを考えながら、姫埜はぼんやりと波打ち際を歩いていた。すると、まだ仄かに青黒い岬の方から、海岸線に沿ってゆっくりとこちらに近付いている人影を見つけた。どうやら、背の高い若い男性が子犬の散歩をしているらしい。きっとホテル客の一人だろうと思った姫埜は、すれ違う間際に彼に会釈した。すると、新しい人間を見つけた喜びからか、子犬が青年を離れて駆け寄って来た。尻尾を元気に振りながら、遊ぼうよ、とでも言いたげに子犬は姫埜の周りを飛び跳ねている。姫埜がしゃがんで背中を撫でてやっていると、申し訳なさそうな微笑を浮かべながら青年が近寄ってきた。
「すみません、人懐っこい性格でして……」
 姫埜は彼のその穏やかな顔を見て一瞬眼を奪われた。視界はまだ翳んでいるが、この男性が際立った美貌の持ち主であることは一瞬で判った。日本人離れした堀の深さ、ラテン的な情熱さと優しさを兼ね備えた美しく女性的な瞳、彫刻のように整った細い鼻梁、果実のような赤味を帯びた愛らしい下唇……。姫埜の意識の中で、彼の顔が特別な一人の青年に重なる。
「いいえ……。犬は大好きなんです」
 姫埜はやや動揺しながらそう言った。そんなはずはない、彼はもうこの世に生きてはいない。だから、この夢のような明け方の海岸で彼と再会することはありえないのだ。姫埜は青年の姿に心を掻き乱されていた。自分が見ず知らずの初対面の男性に、これほど魂をくすぐられるのは初めてだった。
「今日は雨かもしれませんね。ほら、ちょっとあの辺りの雲行きが怪しいですよね?」
 彼は豪雨の到来でも待っているかのように、天真爛漫な少年っぽい笑顔を浮かべてそう海空を指差した。姫埜は空の方ではなく、彼の細長い指先に視線を奪われていた。なぜ、今これほど心臓が高鳴っているのか、自分でも理解できなかった。
「そうね……。困ったな、今日はこの辺りの街を散歩しようと思っていたのに」
「僕も先週、アッシュを連れて散策してみたのですが、本当にゴーストタウンとでも呼びたくなるほど寂しい街でしたよ。このホテルだけが賑わっているのが不自然なほど」
「滞在は長いの?」
「いいえ、まだ半月です。貴女は?」
 青年のその「貴女」という表現には、女性に対する敬意が仄かに宿っていて、姫埜は素直に好感を抱いた。
「昨日からよ」
「初日の御感想はどうでしょう?」
 彼はにこやかに試すような笑みを浮かべた。呼応するように、姫埜も柔らかい微笑みを浮かべた。
「そうね……。このホテル、いいえ、この街全体、なんだかミステリアスな感じだわ」
「同感ですね。でも僕は、ここから眺められる海原に惹かれてこのホテルに決めたようなものですが」
「海が好きなの?」
「ええ、大好きです。泳ぐのも、描くのも」
「描く? 絵描きさんなのかしら?」
「その端くれなんです。来年の四月にNYでやる展覧会のために、海辺を舞台にした油彩画の連作を仕上げないといけなくてね。でも、今はちょっとスランプ状態に落ち込んでいて、絵筆を取るのも憂鬱で……」
 姫埜はクスッと微笑んだ。なぜか判らないが、自分がこの海岸で奇妙な不安に意識を掠め取られていたことと、彼が今、絵筆を取れないほど憂鬱になっているということに、なにか喜ばしい一致を感じたのだ。その共感が姫埜の頬をいつの間にか薔薇色に染めた。彼は子犬のアッシュを抱き締めながら、にこにこ笑っている。またもうすぐ描けるようになるさ、きっとそんな風に楽観的に捉えているに違いなかった。同時に、姫埜はこの青年が、過去の貝殻に大切に保管されている恋人とは完全に異なる人物であるということを今更ながら実感することができた。そう、恋人は自分と同じくモデルをしていたが、絵について話題にしたことは一度もなかった。だが、今眼の前にいる彼は、絵画という手段によってこれまで自分を表現してきたのだろう。その居場所の決定的な違いが、姫埜を逆に安堵させ、微笑みへと導いたのであった。








 
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