† 小説草稿 †

ニンファ





 彼女がなぜ僕と会う約束をしてくれたのかはわからなかった。秘密は僕と彼女でそれぞれ分有し合っていた。正確には、僕が一方的に彼女に恋をしていたに違いなかった。片想いであるならば、彼女には自分には気持ちがないことを最初に宣言することもできただろう。なぜそれをしなかったのか。僕が彼女に惹かれ始めていたことは間違いなかった。薄暗い夜でも、彼女からのメールが届くだけで僕の心は晴れ渡った。いかなる強風にも屈しない不屈の精神力が湧いてくるような気がした。彼女が、自らの日常の時間のごく一部をこうして僕宛てのメールに費やしてくれていること自体が素敵なことだった。メールが来るたびに僕は自分でも恥ずかしくなるほどときめいた。胸の奥で小さな白い薔薇が一瞬で咲くような悦びを感じた。その悦びはあまりにも大きかったので、僕は仕事からの帰宅中でも歩きながら口笛を吹いたりリズムを取ったりするくらいだった。
 ある種の薔薇には高貴さが伴うが、彼女にもまた美しさだけでなく気品が備わっていた。完璧な魅力を備えた人間は、若い肉体でありながら精神的には既にある種の熟成を垣間見せるものである。僕よりも年下でありながら、明らかに僕よりも年上の彼女。僕はそんな一人の女性に恋をしていた。会いたくてたまらなかった。なぜ会いたいのか、その究極的な理由はわからなかった。彼女の生の一部に、僕の存在の記憶をそっと挟み込みたかっただけなのかもしれない。あたかも読みかけた分厚い書物の何気ない栞のように、僕は彼女が日々刻むページにそっと寄り掛かりたかったに過ぎない。
 僕らは待ち合わせ場所に東京駅を選んだ。他県で暮らす彼女に行き先は全て委ねるつもりだったが、彼女自身が東京での展覧会を選んだのである。僕らは上野に向かい、多くの絵画を隣同士で観た。それまでメールと写真でしか知らなかった彼女が、今はそこにいる。僕の心は緊張と悦びで震えていた。ほんの少し衣服が接触するだけで鼓動が早くなるなど、もうこの数年味わってはいなかった。画廊には無機質な静物画ばかり並んでいたが、僕の心には恋人たちが秘密の森で接吻を交わす巨大な絵が広がっていた。春、青春、甘美な時間……表題はどれも浮かれ舞い上がったものだった。僕らは銀座のイタリアンで食事をした後、街路をゆっくり歩いていた。今となっては、あの時なぜ彼女が突如としてあのようなことを口にしたのかわからない。僕らの人生はただ、謎に包まれているとしか表現できないだろう。
「今夜、いっしょに眠りませんか?」
 彼女がそう言った。寝ると言わず、眠ると表現する。それは彼女らしい控え目な口振りだった。















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