† 小説草稿 †

黒い人影






 その日も可憐はいつものように仕事を終え、オフィスを後にした。疲れた表情を引き摺ったまま夜の人気のない街路を歩いていると、電柱の辺りに何か黒い人影のようなものが立っているのを見た。可憐はそれをまず注意深く見るために立ち止まったのだが、直後に全身が総毛立つのを感じた。可憐はそれを見た、というよりも感じた、嗅ぎ取った、というべきかもしれない。彼女の理性的な認識が、その存在を否認しようとしていた。だが、電柱にそれはあった。それがそこにあること、平穏な日常生活に、あたかも読みかけの本に見知らず挿入されていた栞のようにして、それがそこに置かれていることに可憐は震えた。それは、そこに現れていた。可憐は元来た道に引き返そうと、半歩後退った。すると、黒い影も謎そのもののような蠢きの身振りを見せながら、そっと半歩歩み寄った。可憐は声を失った。息と声を奪われるほどの震え、本能的な痙攣が彼女の華奢な身体を覆い尽くした。
 可憐は死にもの狂いに走った。ひたすら自宅マンションを目指して。途中でハイヒールが彼女の常軌を逸した疾走に耐え切れず、遂に頽(くずお)れた。それでも可憐はヒールを鷲掴みして狂奔した。黒い影が追ってきていないか、それを振り返り様に確認することだけは避けたかった。とにかく、可憐は早くいつものあの休息のひと時へ、平穏さの内へと駆け込まねばならなかった。
 オートロックを解除し、階段を駆け足で上り、素早く自分の扉の前まで辿り着いた。ここまで来ればもう安心と、額に汗が流れているのにも気付かずに可憐はマンションの廊下を見回した。隣の部屋と可憐の部屋の中間あたり、ちょうど壁が少し窪みを見せている部分に、先刻と同じ人影が蠢いていた。可憐は悲鳴を発して、無我夢中で玄関の扉を開けた。そのまま瞬時に部屋を折り畳むように施錠し、覗き穴から外を確認してみた。影はいない。一分後、やはり影は現れなかった。五分間、際限なく覗き穴から外の様子を確認し続けていた可憐だったが、遂に悪夢は終わったことに安堵した。可憐はようやく帰宅していたことに気付いた。心配することはない、影は消え去った。近頃、仕事で負荷がかかり過ぎていたことのストレスに起因する幻覚に違いなかった。この時ほど、科学的な合理的解釈が可憐にとって救いのように感じられる瞬間はなかっただろう。可憐は恐怖が別の場所へ離れ去ったことに安堵した。それと同時に、不思議にも心が高揚していることに気付いた。楽しい、のではない。恐怖が突如として侵入してきたことを、今改めて認識しつつあるようだった。その感覚には、得体の知れない満足感と、何か自分だけに訪れた、恐るべき世界の秘密への好奇心が渦巻いていた。可憐は遂に薄汚れたハイヒールを手にしたまま、笑い始めた。
 なんてことはない、ただの人影である。そう出来事を単純化したい反面、あの人影が実質的に何であったのかをどうしても理解したいという欲望が芽生え始めた。人間だろうか。だが、人間ならなぜ、それは影として存在しているのだろう。影のみとして身体を構成する種はこの地球上には存在しない。宇宙人だろうか、と思い立った時、またしても可憐の意識の奥から泡のように細かい無数の笑いが沸き起こった。あれは幻の出現であり、おそらく本来は夢の中にしか存在し得ないものなのだろう。それを現実に可視化してしまったのは、自分が知らず知らずに精神的な疲労を溜め込んでいたためだ、そのはずだ、と可憐は自分の考えを合理化した。
 可憐は遅い夕食を取り、シャワーを浴びた。ドライヤーで髪を乾かしていると、スマートフォンで電話が入る呼び出し音が鳴った。見たこともない番号だったので取らない選択もあったが、可憐はその時電話に出た。彼女の意識の襞のどこかに、この電話の主人があの人影ではないかという仄かな期待が生じていたことは事実である。












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