† 美学 †

グレアム・ハーマンのメモ


ハーマン「第一哲学としての美学」メモ (引用抜粋)

お互いから部分的に距離を取っている特定の実在たちの包括的なカーニバル

私達は物事が隠された存在の多様性を保持し、感覚的領域が個別の個体たちで満たされている状態のまま、完全に互恵的な現前から物事を自由にすることが出来るのである。レヴィナス哲学の根っこにあるのは単一化された「善」や形のない亡霊的な霧というよりもむしろ、個別の実在なのである。実体とは、表面の源泉である深淵を多少言及する表面を放っている間でさえ、その近隣にあるものとの全ての関係性から引きこもっているものである。私達は決して完全な形で他者と出会うことはないし、また決して純粋な表面と出会うこともないのである。代わりに、私達は私達自身が誠実性の状態にあることに気がつくのである。

➡ここでいう「実体」を「本」というただの物体に置き換えてみる。本は確かに開かれる前は完全に閉じられて引き蘢っている。しかし、開いて「文字」を追えば、何かを惹起されざるを得ない――。

第二に、レヴィナスが言うように、言語は目に見える表層の世界を超える特殊な力を持っているのだということを受け容れる場合でさえ、これはまだ人間だけに限った力であるように思われる。そんな人が存在すればの話だが、忠実な意味での親-動物的なレヴィナス主義者でさえ、イルカと蛇はコミュニケーションの手段を持つと主張するかもしれないが、木々や砂の塊へとその能力を拡張することを快く思っていないだろう。

無限の深淵とエレメントの表面の瞬間を統合するものは個別の実体であり、そして私も誠実にそれらに関与しているのだ。森において隠された力、あるいは無数のマスクの下で愛されているものの魂によって魅了されながら。

(レヴィナスにおいては)
存在は意識なしには存在することが出来ない。明証性は意識にとって生じるのである。

相関主義にとって、人間から離れた世界について思考することは意味を成さない。あるいは世界から離れた人間にとって思考することは意味を成さない。相互に独立した相互作用だけが思考することが出来るのである。明白な意味において、レヴィナスは現象学を通じて発見された教条主義的相関主義を展開している。

私は私が見ているものへ融合しないけれど、私は志向性の核の中心で見ているものと並んで存在している。見ているものが恩返しをすることは無いにも関わらず、誠実に、見ているものに魅了されながら。私は現象に対して連続し隣接している。接近における隣接は全き外面性であるが、空間的連続性とは無関係である。誠実性において、私達は融合でもなければ、隣接した無関心でもない何かを持っている。それが代理性(proximity)である。代理性だけが私達に世界の一つの部分と別の部分の間のコミュニケーションの希望を与える。なぜなら代理性だけが離れた所からメッセージをお互いに送り合いながらも、物事が物事自体であることを許すからである。それなしにして、メッセージの移動として言語は不可能であっただろう。

➡例えば「木」という文字、この文字面もまた「もの」である。つまり、それは岩や蜂のような存在と同じだ。そこから何かを喚起されるということは、やはり「代理性」はテクストの内部において強烈に働くということなのか――とはいえ、同じことは山にある土や昆虫といった素朴な実在にもいえるが。

誰も岩や木は元より猿であっても、彼らの倫理を要求したりしないので、私達は狭い人間的王国の中にまたがったままなのである。レヴィナスが説明していることは、融合無しの代理的接触の重要性なのである。しかし、彼が単に想定しているのは、無機物やおそらく動物でさえ、闘争としての因果の連なりの中で盲目の繋がりをもつだけだが、人間だけがその距離に入り込むことが出来るということなのだ。レヴィナスにとって、岩と動物は存在の全体性にだけ属している。別の仕方の無限は人間の中にだけ見いだせる。あるいは人間の倫理的、言語的な中にのみ見いだせるものなのだ。

哲学にとってダイヤモンドと爬虫類を救うことは私達自身において責任である。

倫理は不正にも、デモクリトスとは少し違った仕方で一人前の人間とロボティックな因果の抵当物の間に世界を分けてしまうからだ。第一哲学は個別的な実体とそれらのお互いに誠実な代替性に関するより一般的な理論である必要がある。何故なら代替性においてのみ、コミュニケーションは生じるからである。これは無機物を含めて、コミュニケーションの全ての形式にとって真実であるに違いない。複数の人達が軍隊に完全に溶け込んでしまうことはないように、機械のギアが完全にお互いに融け合うことがない。一つのギアが別のギアに影響を与えたとしても、これは誠実性や代替性だけを通じて起こることなのだ。

私は木を廻る、あるいは単にその現われが霞んでいく暗がりの中で変化していくのを待ちながら、私は一つの、そして同じ木の新しいバージョンを見るのである。志向的対象としての木は私が同じものとしてそれを認識し続ける限り、これら全ての変化の只中で私にとって同一性を維持し続ける。しかし、私達は常に志向的な木はあらゆる所与の瞬間において現われ以上のものであると感じる ― 一連の全体の表われが下位のものであるようなより深い統一された原理があるように感じるのだ。この点において、木の表面上の質と統一された観念的深淵の間にある種の分裂が存在するのである。


ゲオルグ・トラークルによる、トラークルが決して書かなかった可能な詩の一節について考えよう。
退廃した街は衰退していくギターを滅ぼし。
女僧侶は木を哀悼する。
シスター、あるいは狼は
子犬を沈黙させる
叫べ
おお、人間よ!
今、もし私達が実在の木の前で、実在する女僧侶が哀悼しているのを目撃しているなら、私達は全く美学的経験をしていないということは可能であろう(ありそうもないけれど)。私達はその女と木の両者の実在の理想的本質の直観に辿りつくために、その女と木の周囲を周り、それらの輪郭を描くことで、フッサール主義的分析の見地の上にいるかもしれない。しかし、その詩を読む時、私達はとても散文的あるいは気の散った読者でない限り、より多くの何かが生じるだろう。第四の段階において、木という言葉はハイデガーが木の呼び声や召喚と名付けるようなものを引き起こすのである。それは、私達の志向的関係性を超えた影の深淵へと主張、あるいは仄めかしている間でさえ、ある種の霞んだイメージとして私たちの心の中に生じるのだ。このケースにおいて、上記で記述されたものよりも、より不吉で明らかな種類の分裂がある。一連の現われに対する統一のフッサール的イデア的原理としての現前ではなく、木への魅惑があるのだ。その木は魅惑になるのだ。もし、各々の瞬間における私達の知覚がレヴィナスによって「核」と名付けられるなら、魅惑の中で私達に生じていることは ― めったにこれらの力は魅惑の形式を取らないけれども ― めったに生じることの無い、超越からの力による核の貫通なのである。

➡これはある意味、読書論というか、本の読み方をいっそう深める。深まった読書へと誘う。

レヴィナスが私達に教えるように、形而上学の実在の問題は存在がシステムとどのように相互作用しているか? というものではない:むしろ、その問題は、多少、代理性 ― 触れること無く触れること、それは魅惑、あるいは仄めかしとして名付けられる ― を通じてコミュニケーションしながらも、存在がどのように独立したリアリティとしてそのシステムから撤退するかというものである。

➡つまり、本を読んでいて「公園」について何かイメージする、ある場面について何かイメージすること――そこには、その「語」によって喚起されたものとの「魅惑」の関係がある。触れることなき接触、ほのめかし、美的な接触がある、ということか。しかし、この考えの根底にあるのは「イメージ」や「意識」というラカトシュのいう「第二世界」(相関主義)ではないのか。あくまでも現象学的直観の概念に依拠しているのではないのか。
つまり、ハーマンにとって「魅惑」、ある物に触れることなく魅惑される、感覚的次元において実在とコミュニケーションするとは、いわば本の中で出会った「架空の存在」を「イメージ」することでもあるのだろうか。それはしかし実在と言い得るのか。というより、岩や昆虫を実在として認めるのであれば、脳や神経系も物であり、だとすれば脳の運動の産物である「イメージ」もまた実在の一種なのだろうか。


美学は第一哲学である。何故なら形而上学の重要な問題は次のようなものだと今や明らかなのだから: 個別的実体は代理性の中でどのようにお互いに相互作用するのだろうか? しかし、美学は一般的に、人間にのみ、あるいは、最大でも美しいソングバードや哀悼するザトウクジラような特定の好ましい動物にのみ属するものであると考えられている。もしレヴィナスに従うなら、岩やトウワタ(白濁の汁を出す植物の名称)が単に盲目の因果の連なりの中で、使い尽くされているままに、無機物は魅惑の王国から除外されているだろう。しかし、これは不可能なことなのだ。

読了


グレアム・ハーマン: Art Without Relations

私達は、人間と生命のない身体が小さな物理的構成要素無しに存在できないことを知っている。しかし、私たちは同時に、「モノたち」が、自らの構成要素の中で生じている変化に抵抗することが出来る強固なリアリティをある程度持っていることも知っている。モノとは諸部分を超えた創発性であり、その諸部分だけによって余すこと無く説明することは出来ないのである。

➡ここでいう「もの」も、やはり本の中の「文字」(インクに還元されるものとしての文字)が我々の「脳」(やはりもの)に与える「魅惑」を前提にしているのではないか。

「モノたち」は、ありとあらゆる表現されていない個別的な余剰部分を無しに、文脈によって完全に定義されている、と主張することは信憑性に欠けるからだ。 この考えを保守することは、全てのものごとが既に可能な全てである世界へと身を委ねることである。 もしこのメロンが、あの街が、あるいは私自身が、ただ単に他のあらゆる全てのモノたちとの〈現在の関係性〉だけなのだとしたら、変化は生じ得ないだろう。

➡これはつまり、実際に幽霊がいるような気がするとか、人形が動いた気がする、というような心霊現象へ開かれたものというより、むしろ「幽霊」という語が喚起させる何かとの美的な関係を前提にしているのではないか。つまり、「実在性」の拡張、リアリティの拡張ではないのか。これはゲーム世界の拡張でも良い。ポケモンGOのモンスターは確かに画面だけの存在だし、たんなる「もの」だが、そこにはリアリティがあるし、人はそれに魅惑される。
私はこの主題を、銅線や気候システム、フィクション上のキャラクターたち、爬虫類、アートワーク、陽子、つかの間の出来事や数字など、ありとあらゆる全てに加え、人間を含んだ広い意味において、「オブジェクト」と呼ぶことを提案したい。

オブジェクトとは諸部分を超えた創発性であり、その諸部分だけによって余すこと無く説明することは出来ない。



読了

グレアム・ハーマン:The Road to Objects
ラブクラフトは思弁的実在論の「思弁的」の部分を担う一種のマスコットとしての役割を果たしている。何故なら、彼のグロテスクなセミ・ユークリッド的な怪物たちは、思弁的実在論が熱望している日常の常識の拒絶を象徴化しているからである。

モノ自体は人間に直接的にアクセス可能だろうか?それとも不可能だろうか?単純化して言えば、思弁的唯物論の答えはイエスであり、一方、オブジェクト指向存在論の答えはノーである。

私自身は、より明白ではないが、より現代的な「現象学」というオブジェクト指向哲学の伝統を通じて、非-直接的に伝統へと回帰したのだ。ここで、私はフッサールとハイデガーを意味している。彼らはそれぞれ「モノ自体たち」の哲学において、異なるイノベーションを作り上げたのだ。

ブレンターノのように、フッサールは志向性という概念にフォーカスを当てた。それは心の前にあるモノへ集中することを意味している。全ての知覚、判断、愛、嫌悪はいくつかのモノの知覚であり判断であり愛であり嫌悪である。このモノは決してアクセスを超えた隠されたモノ自体ではなく、純粋に主観的なものである。

実は単に、シェークスピアのフランス語やオランダ語への翻訳が英語のテクストと一致することはないように、感覚的モノたちは実在するモノたちと一致することはないということを私は信じている。全ての翻訳は同じではない。

フッサールが現実世界を、全てを主観的現象の領域に没落させることによって、切り落としていたことは事実である。しかし、精緻にそれを実行する時、彼は主観的領域の内側に以前には知られていなかったドラマを発見することが出来たのだ。それは常に変化しつづける側面を持続するモノとなるのである。それらを意図的なモノたちと呼ぶ代わりに、私はそれらを少なくとも二つの理由で「感覚的なモノたち」と呼びたいと思う。

オブジェクト指向モデルによると、ただ現在だけが存在する。ただ質感を持ったものだけがあり、その瞬間の決闘がそうであるところの全てへと閉じ込められている。その意味で、時間は単に空間的な第四の次元であるという通常の理由からではなく、幻想的なものであり、常に既に始めから現在なのである。

明らかな持続の内側に変化は存在するからである。感覚的なモノたちは、その表面上の輪郭の中で渦巻く振動であるけれども、持続している。そして、これは明白に時間の経験によって意味されるものなのである。

「感覚的モノたち」と「私」は、私の中で出会うことは出来ない。代わりに、私たちの出会いは、私と実在的木の間の関係性の内側で起こる。

➡これは単なる言い換えに過ぎない。というより、ハーマンはラヴクラフトを持ち上げていながら、それをうまく説明し切れていない。結局、「新しい現象学」である以上、ハーマンは「直観」に依存している。

どうにかして一つの繋がりを産み出す時、私達は新しいモノになる。あらゆる関係性は、新しい「実在的モノ」を形作る。

➡ただし、これについては「発展」させなければならない。つまり、ハーマンの曖昧で穏やかな表現をもっと大胆に亡霊的な現象の解明へと接続させることは可能であり、それはラヴクラフト的な「幻想文学」の再評価に繋がる。タルコフスキーの『ストーカー』ラストでの、少年がサイコキネシスで物を移動させる場面――あれは、少年と物とのあいだの「創発」ではないのか。あれを解明すること。――「単なる汎心論的アミューズメント」への退行ではなく。

友人あるいは恋人たちの間の関係性は、その時お互いがまるで幽霊と関わるかのように関わる、二つの、同時だが、非対称な関係性へと分割される。ありとあらゆる場合において、私たちは三つ目のモノの内側にある、「実在的モノ」と「感覚的モノ」の間の、この接触こそが、私たちが求めている種類の直接的な接触なのであると付け加えるべきである。

デランダにとって、フラットオントロジーは単に全ての実在者は同じように扱われるべきであるということを意味している。言い換えると、それは反-還元論的用語なのである。例えば、軍隊、街そして牛の群れは単に鉄の梁やカリウムの原子と同じように実在しているかのように。「フラット」という言葉は今やその意味を反転させている。全ては人間の意識の領域に住んでいるという階層無しに世界に言及するというよりもむしろ、それは代わりに全ての階層が同じ活動領域にある世界を意味しているのだ。

➡ロイ・バスカーの「フラットオントロジー」
以下は、オカルティズム化へのハーマンの明確な否定として最重要。
ブライアントとハーマンの差異。ハーマンはブライアントのように「ホラーの哲学」化を受けない。
ハーマン=「思弁的実在論の認識論派閥」
ブライアント=ホラー化

実在することなくモノに影響をあたえるモノは存在するのだろうか?そして、こここそが、私が別の哲学者の友人で、Larval Subjects blogのレヴィ・ブライアントに同意出来ない場所なのである。ブライアントにとって、あらゆる種類の影響をもつものは実在である。そして例えば、中国人の棒人間、ポパイ、そしてラブクラフトの怪物達が誰かの気分や映画や本の売上により大きな、あるいはより小さな影響をもっているように、全てはまた実在しているのである。全てのフィクションの登場人物のこの明らかな実在性によって、馬鹿げたほどインフレした宇宙を擁護するブライアントを批難したくさせられる。彼の宇宙では全ての現動的で可能なものは実在しているのである。

明らかに、私はありとあらゆる規模の水準において実在的な存在があるという点でブライアントとデランダに同意する。私の意見は完全に彼らの反-還元主義的プラットフォームに一致している。しかし、私は単に心のなかにあるものが私に影響を及ぼすという理由によって、それゆえにそれが実在しているという点においてブライアントに同意しない。

彼らの陰気に曇った両目において、一方でブライアントは全てのイメージは実在してると言いたいけれど、他方で、彼らはいくつかは実在しているし、いくつかは虚偽であると主張したいのである。しかし、私は全てのイメージは虚偽であると思っているという単純な理由によって、私はこの立場とは全く関係がない。

感覚的なものは決して実在的ではないのである。

➡逆に言えば、ブライアントの考えに今の私は近いし、彼はより幻想文学寄りなのだろう。オカルティズム化しているともいえる。

読了

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