† 小説草稿 †

前兆







 平穏な日常が突如として、得体の知れない何かによって破られることがある。貴史が最初に遭遇したのは、道路を隔てた眼の前にあるマンションの一室で起こった、隣人の奇怪な死であった。いつものように授業を終え、書店に軽く立ち寄ってマンションの前に差し掛かると、パトカーが二台止まり、警察がバリケードを設けて何かを調査していた。ちょうど駅から近く人通りも激しい道だったので、野次馬の数もいっこうに減ることがない。夏の夜八時ともなると、東京のこの街では生暖かい風が襟首の辺りを撫でることも多かったが、さすがにその日ばかりは貴史も冷たい汗をハンカチで拭わずにはいられなかった。というのも、周りの群衆から小声で零れ落ちてくる断片的な会話から察するに、死んだのは若い男性だったそうだが、その死に方が常軌を逸しており到底口にすることも憚られるというからだ。おそらく何か凄まじく恐ろしい死を遂げたであろうことは、被害者と同じ部屋にいたらしい若い女性の、完全に憔悴し切って魂が抜けてしまったような蒼褪めた顔が一瞬だけ窺えたことからも想像できた。
 貴史は騒然とする現場から逃れ去るように、小走りですぐ傍にある自宅マンションの玄関扉を開けた。階段を駆け上がり、二階の廊下からもう一度道路を見下ろしてみる。この高さからだと、女性が警官から何やら質問を受けている様子は確認できたものの、被害者は救急車で運ばれた直後なのか、その場にはいなかった。何か異常な出来事が起きた直後の、まだ収拾がついていない混乱した状況である。貴史の背後で扉が開き、中から既に帰宅していた妹の詩織が顔を覗かせた。詩織もほんの十五分前に帰ったばかりだそうだが、その時タンカーで運び出されたのは人間ではなく黒いポリ袋に入った何かだったそうだ。警察は幾つもポリ袋を運び出していたそうだが、それは男性の殺され方を如実に物語っているようであったらしい。まだ若い警察官の一人は、あまりの現場の凄惨さに衝撃を受けたのか、群衆が見ている前で堪え切れずに吐いていたようだ。
 その夜は当然、貴史も詩織も夕食を取る気になれなかった。部屋の中にいてもずっと意識がざわつき、掻き乱されるような感覚だった。それでもなんとか食事を終え、家事を済ませてシャワーを浴び終えた頃には、既に警察は立ち去り、野次馬たちも消えていた。もう一度二人で前のマンションの前を見下ろすと、そこには曰くありげに張られたバリケードが、数人の通行人の首を傾げさせているだけだった。無論、貴史は死んだ男性については何も知らなかった。一度、窓を開けて煙草を吸っている姿を夕暮れに見かけたことがあった。髪を茶色に染めた、やや田舎の不良っぽい髪型の小太りな三十代後半くらいの男性だという外見の特徴以外、特に印象に残るところはなかった。
 翌日は報道陣が朝から取材に来ていて、再び物騒な雰囲気を醸し出していたが、その日も講義だったのでただ通り過ぎただけだった。講義中や、昼食の時間にも昨夜の人々の群がりが頭を過ったが、帰りにもう一度前を通ると、報道陣も消えてバリケードだけになっていた。あの男性が暮らしていた部屋の窓は、カーテンで覆われたままだ。詩織と事件についてTVを観たり、ネットで真相を調べている時、貴史は妙に冷静だった。得体の知れない兇悪な殺人鬼がこの街にまだ潜んでいて、次は自分たちではないかという不安が完全に無いわけではない。それどころか、隣人の怪死が与えた恐怖の大きさは、詩織が深夜までネットに齧り付いて情報を必死に探っている姿からもよく判る。自分もこの事件を怖がっているはずだ、そう感じる一方で、貴史の意識にはどこか、おそらく立て続けにまたこの近辺で殺人が起きることはないだろうという、妙な安堵が早くも芽生えていた。事件が起きたことで緊張感を楽しんでいるのだろうか。あたかも、今にも襲い掛かろうとする殺人鬼がそれは人が死ぬことに快感を覚えているわけでも、それを自ら望んだりするわけでもない特殊な感覚だった。ただ一つ言えるのは、大学と自宅を往復するだけの、数知れない本や論文と向き合う毎日の中で、否応なく刳り貫かれてしまった非日常との通路、いわば孔だった。
 貴史は電車の中で、彼がいったいどのように殺されたのかを想像した。最も幼稚でありながら最も衝撃的なのは、彼がこの世界には存在しない怪物に喰い殺されたというものだった。鳥類と魚類、それに昆虫の翅や触覚を組み合わせて頭の中だけで創造したキメラ的な生物が、あの小太りの茶髪の男の肉を抉り、骨までばりばりと噛み砕いている。キメラはあまり美味しくない部位だけ部屋に残すと、そのまま窓から素早く飛び去ったのだ。たまたまシャワーを浴びていたか、トイレにいた女性の方はそれと目が合うことを免れた。ただ、窓から飛び立つ最後の後姿だけ見てしまい、それが原因で現在も病室で放心状態になっている。そんな一連の空想劇が、あるいは本当に近所で起こっていたのかもしれない。現場に残された証拠が少なく、事件解明が困難な状況にあると伝えるニュースが、貴史のそんな想像をいよいよ高めるのであった。無論、こんなものは子供騙しのファンタジーに過ぎず、実際は暴力団員なりシリアルキラーの犯罪に異常な関心を持つ少年たちによる兇行で、つまりは現実に人の手が介していることは間違いないだろう。貴史が想像に向かってしまうのは、むしろ自分が意識の奥深いところで、このような異常な出来事を密かに待ち望んでいたからだった。その点で、貴史は紛れもなく性質の悪い傍観者に過ぎなかった。
 
 
 
 








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