† キリスト教神学 †

神の本質としての「表象不可能性」





 私は二十一歳の時、カトリック教会で洗礼を受けた。論理的に言えば、私は「神」を既に信じて「いなければならない」。しかし、哲学はこうした自明とされ、思考の習慣にまで降下した事実を再度、検証するという「再客観化」の力を持っている。私はこのページで、改めて、「神」が本当に現代において、「生きている」のか、この神学的な根本命題に、私の全ての知力を投資して単独で対峙することにする。
 カトリック神学によれば、神とはまず「愛」である。愛であり、一であり同時に多であり、完全な善であり、完全な力であり、全智であり、生と死を支配し、存在そのものであり、その本質とされる無そのものである。一であり多であるとは、この世界に存在している多種多様な実在全てに神が「遍在」しておられ、かつ、それらの本質は常に「一」であることを意味する。一であり多であるとは、一なるものが複数の様態を有するということである。その端的な例は原子であり、この組み合わせによって様々な物質が生成する。あるいは、遺伝子の最少単位を「一」とした場合、その組み合わせによる生命の多種多様な生成は、「多」である。ただ、原子や遺伝子の例はあくまでもレトリックであり、神においては多なるものを一なるものとして見ることが可能であるだけでなく、一なるものから多を産出し、逆に多を一へと帰せしめることが可能である。
 ここでまず、「生/死」、「存在/無」といった二項対立が、神の属性として規定されている点に注目せねばならない。より正確に言えば、神学ではこのように神を「表現」する、すなわち、「表象」するのである。ユダヤ・キリスト教神学における「神」を、まずもって「表象」と「表象不可能性」のせめぎ合い、駆け引きとして捉える視座がここに成立する。ミケランジェロの《アダムの創造》における神の指先は、無論描かれたもの、つまり「表象」である。しかし、画家はこうした画像によって「神」の姿を完全に捉え切れないことを承知してもいたはずである。イコンや絵画などの、聖なるものを象った像には、こうした「聖性の代替」という機能が存在している。イコンや彫刻によって、あるいは人間の手で奏でられたものによって、神を表象することは常に可能である。しかし、言うまでもなくこれらは神ではない。そうではなく、これら聖性の代理物は、「神的なもの」なのである。
 絵画的に表象された神が「神的なもの」であって、真の神ではないように、神学的に定義された「神の属性」も、人間の言語という人工物によって仮構されたものである以上、その例外ではない。ゆえに、神学は全て、アクィーノの聖トマスが述べたように、真なる神を「指し示す」壮大な一大序曲として存立するのである。
 以上から、我々は「神的なもの」の本質を、神の「表象」を目指すものとして考えることができる。そして、これは常に、既に「失敗」を条件付けられている。この人間による神への「表象不可能性」こそが、まさに神の本質を「表現」する最良のメタファーである。神は言語的にも、芸術的表現によっても、表象され得ない。では、神を歴史上、「表象」し得た出来事は存在しなかったのであろうか。実は、この唯一にして最大の例外として策定されている、ある特異点が存在する。そう、ナザレのイエスの出現である。
 
 
 












  
 
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