† 小説草稿 †

マリー




 フランス革命前は大貴族として名誉も財産も掌握していたエティエンヌ・ド・ヴァルフォワ公爵の実の孫に当たり、今は人里離れた宏大な屋敷でひっそりと暮らしているアルマンはもうすぐ、二十八歳になろうとしていた。アルマンはパリ大の医学部教授の父親の勧めで、最初は医者を志していた。だが、自分の天性が少しずつ芸術にあることに気付き始めた彼は、優秀な成績で入学したはずのパリ大医学部を一年も経たないうちに退学し、専ら詩作と芸術鑑賞に耽って暮らすようになってしまった。そんなアルマンを咎めた父フィリップは、彼をレオニード男爵夫人の息子の家庭教師になるように勧めたが、これはむしろ逆効果であった。偉大な詩を生み出すためには、情熱的な恋愛を経験しなければならないという天啓に衝き動かされるようにして、アルマンは短くも熱狂的な愛をこの年上の男爵夫人に捧げたのである。男爵夫人もこの若く美しい恋人の魅力に気付いていた。二人は焔のように愛を燃え上がらせ、やがて完全な灰の沈黙を迎えた。この苦い失恋の後、アルマンはその場限りの女たちと儚い情事に現を抜かしたが、やがてそれにも疲れ果て、今はただ、広過ぎる屋敷で一人の老いた侍女マリーと孤独に暮らす生活を送っているのだった。
 アルマンはその夜も眠れず、ぼんやりと寝室の窓辺に飾っている一輪の薔薇を見つめていた。既に何枚か花弁を落として、後はただ枯れゆくだけの物悲しい白薔薇。アルマンは白薔薇の花言葉が清楚、純潔であり、聖母マリアを象徴することを無論知っていたが、その花を見ている自分の魂がもはや純潔とは程遠いほどに薄汚れてしまったような気がしていた。それはレオニード男爵夫人との間で交わされた、ある秘密に来歴を持っている悩みだった。だが、アルマンは誰にもそれを告白できずにいた。たとえ誰かに相談したとしても、気でも触れたか、何か新しい物語に憑かれていると勘違いされてしまうであろうことをアルマンは予感していたのである。そうに決まっている、そして、自分が魂まで深く惚れ込んだ相手との間で起こってしまったことについては、後はもうその十字架を背負って生きていく他はないのだとアルマンは内心で覚悟してもいたのだった。
 深夜の冷たい樹液にすっかり毒されて、アルマンの顔は本当に亡霊のように暗澹たるものだった。そんな主人を心配して、今年で六十八歳を迎えるマリーが寝室の扉をそっと開けた。窓辺の薔薇を見つめながら、今にも夜の庭園へ身投げしてしまいそうな表情でアルマンがぼんやりと立っている。マリーは慌てて若い主人に立ち寄った。
「アルマン様は、本当に大袈裟ですよ。明日から体を動かしてみてはいかがでしょう?」
 マリーは今夜もそう言って、アルマンをなんとか励まそうとした。
「貴方には立派な土地と家、財産があります。もうこれだけで、本当は貴方は他の多くのフランス人よりも優れているんですよ。それなのに、いつまでも昔の女の人のことばかり思い悩んでいてどうするんです。いっそ、全部何もかも忘れ去って、一から人生を始めるくらいの気概を見せてごらんなさいな」
 マリーは近頃では、こんな風に母親代わりになってアルマンを勇気づけようとするのだった。マリーがこれほどまでに親密になってくれているのも、アルマンの父が二年前にヴェネツィアを旅行中に病死してしまい、後を追うようにして母も落馬事故が原因で息を引き取ってしまったという不幸にも起因していた。いわば今のアルマンには、この陽気で逞しい小太りなマリーしか家族と呼べる人はいなかったのである。
「マリー、もう僕のことはほおっておいてくれ。僕はとても疲れているんだ……」
「きっと本の読み過ぎですね。たまには近くの海へ泳ぎに行ったり、友人と山登りへ出掛けたりされてはどうです?」
 アルマンはゆっくり首を横に振った。
「僕にはもう、本当の友達は誰一人いないんだ……。僕の世界はもう、今にも滅びようとしている。どうせ、僕が子孫を残さなければ、ヴァルフォワの血筋は途絶えるんだ。だとすれば、消滅させてやればいい。元より、宮廷に流れ着いた喜劇役者が僕らの血統の元祖なんだ。僕のこの悲惨な人生も、長い眼で見れば喜劇の一部ってわけだ。滅びるものは、滅びるに任せればいいんだ……」
 マリーは眼を丸くして、大袈裟に怒った表情を浮かべてみせた。
「なんという恥ずかしい弱音なんでしょう。御父様が天国で嘆いておられますよ。ほら、もうしっかりして下さい。今夜はちゃんと横になって、たっぷり睡眠を取り、明日は健康のためにわたしと近くの森を散歩してみませんか? ちょっとした料理と御菓子を携えて、涼しい森の小径を歩きながら心地好い陽の光を浴びていると、アルマン様もきっと昔のように明るい笑顔を取り戻しますわ」
 アルマンはおもむろに頷いたが、それは今にも倒れそうな小岩が斜面を滑り落ちていったような印象を与える脱力的なものだった。マリーの頭の中ではそれでも、明日、どんな料理でアルマンを元気付けるかを既に愉しげに構想していた。

 翌日、アルマンは屋敷の傍に広がるヴェストリスの森と呼ばれる森林地帯へ足を運んだ。もちろん、隣には長年ヴァルフォア家に仕えてきた老家政婦のマリーも一緒である。初春の輝かしい太陽に照らされて、その日の森にはニンファたちが駆け巡っているような馥郁たる息吹が漂っていた。ちょうど、昨日の午前中に降り注いでいた大雨の後で、大地は一度洗い流され、生まれ変わったような新鮮さを帯びていたのである。木漏れ日が燦爛と射し込む枝葉からは、時おり森の讃美歌の主役を担う小鳥たちの合唱が聴こえてきた。ヴェストリスの森は、今日も古き良きヨーロッパの自然をその全てにおいて体現していた。
 マリーは深く深呼吸し、森の澄み渡った空気をその胸に吸い込んだ。彼女は何か自分が心身共に若返っていくような気がした。だが、ふと隣に眼を移すと、相変わらず肝心のアルマンはペストにでもかかったような深刻な表情を浮かべながら、とぼとぼと歩いている。時おり、躓かないように慎重に小径に埋まった岩を避けている、どこか不器用な姿にマリーはだんだん苛立ってきた。なぜ、この子は昔から外で遊ぶよりも家の中で本ばかり読むことの方に幸せを感じてきたのだろう。読書も確かに気晴らしになるが、マリーにとっては体の健康こそが全てだった。健康を害すれば、頁を一枚捲ることにさえ苦を感じるだろう。
「アルマン様は、なぜそんなに思い詰めた顔を浮かべてらっしゃるのです?」
 マリーは黙っていられず、遂にそう尋ねた。
「せっかくこんな涼しい森の中を歩いているというのに……」
 その時、脇の茂みの奥から不意に一人の巨漢が姿を現した。見るからに人相の悪い、乞食のようなみすぼらしい格好をした大男である。マリーは思わず悲鳴をあげた。
「おい、貴様がヴァルフォワ家の主人だな。身包みを全て置いていけ」
 大男はにたにた笑いながら、腰から短剣を抜き取って刃先をアルマンに向けた。だが、アルマンの表情は微塵も変わることがなかった。なにせ、彼は初めから既に死んだような顔をしていたからである。
「僕の持ち物が欲しいのか?」
 アルマンは男の眼も見ずに、地面に茂っている雑草に眼を落としながら低い声で言った。
「ああ、そうだ。抵抗すればどうなるかは判っているな」
 男はいよいよ刃先をアルマンの沈黙した唇にまで向けた。その時、アルマンがすっと首を上げ、男を見つめた。その眼の異様な輝きを目の当たりにして、男は一瞬たじろいだ。これまで幾つもの危険な修羅場を潜り抜けてきた悪党の端くれだからこそ直観できる、本能的な畏怖の念がそこにはあった。この若い貴族は、何か名状し難い苦悩を抱え込んでいるだけではない。それ以上の何か、おぞましい呪いの如きものを背負っているのではないか。男は自分よりも背が低く、華奢なアルマンの冷徹とも言える眼差しに戦慄を覚えたのである。
「持ち物なら、全てお前にくれてやろう。衣服だけと言わず、あの館にある財宝も全てな」
 アルマンはほぼ無表情にそう言った。マリーは驚愕してアルマンの横顔を見やった。いつもと同じ憂鬱な表情を浮かべているアルマンだったが、その時は何かが違っていることにマリーも気付いた。何かが違う……そう、この身の危険を感じる瞬間において、アルマンは全く異質な存在に変わったような気がしたのである。アルマンはポケットから屋敷玄関の鍵を取り出すと、それを大男の足下に投げ捨てた。
 次の瞬間、大男は激昂してアルマンに短剣を突き刺そうとした。だが、アルマンはいとも容易く、あたかもトランプで相手の手札から一枚抜くような軽やかな仕草で刃先を掌で受け止めた。受け止めたというより、刃は彼の掌を貫通して甲を突き破ってしまった。それでも、アルマンの表情は変わることなく、ただじっと男の眼を黙って見つめているのだった。これにはさすがに大男も恐怖を感じ、一歩後退した。血相を変えたマリーは両手で口を抑えたまま、がたがたと全身を震わせていた。
「貴様は何者だ? いったい、どんな手品を使った?」
 その時、大男の背後の茂みから仲間の男たちが数名顔を覗かせた。皆、大男と同じように盗賊まがいの姿で、その眼はぎらぎらと血走っていた。悪党たちは群れだって大男の左右に踊り出た。アルマンとマリーはすっかり包囲された状態だった。マリーは恐怖で最早立っていられず、眼を瞑ってしゃがみ込みながら聖母に助けを求める祈りを唱え始めた。マリーが眼を閉じている間、アルマンの声は聴こえなかった。ただ、男たちが遅いかかる叫び声と、剣が風を切る鋭い音、そして次々と彼らが悲鳴をあげながら倒れていく声だけが響いていた。マリーは驚いて、恐る恐る瞼を開いてみた。
 そこには、狭い森の小径を塞ぐように犇めき合って倒れている五、六人の男たちの姿があった。皆が皆、口から血を流し、辺りはすっかり血の池になっていた。アルマンは少し離れた樹木に寄りかかっていたが、衣服は夥しい返り血で塗れていた。マリーは失神し、その場に倒れてしまった。アルマンは素早く駆け寄ってマリーを抱きかかえると、足早に屋敷への道へと引き返した。




 
 









 
 
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