† ジャック・デリダ †

来るべきデリダのために ―パレルゴン/デクパージュ/折り目― 

ジャック・デリダ―1930-2004 (別冊環 13)ジャック・デリダ―1930-2004 (別冊環 13)
(2007/12)
不明

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デリダ―きたるべき痕跡の記憶 (哲学の現代を読む 3)デリダ―きたるべき痕跡の記憶 (哲学の現代を読む 3)
(2006/12)
廣瀬 浩司

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現代思想の根幹概念とは、常に既に、「余白(パレルゴン)」である

現代哲学、現代文学、そして現代神学――これら意味の外延の広いそれぞれのフィールドにおいて、今、最も重大な「テーマ」は、一つである。
それは「余白」である。
「余白」とは、エルゴン(作品)の外、という意味で、ギリシア語では「パレルゴン」という。
余白の概念は、実は非常に不思議で魅惑的な概念である。
例えば、













私は今、エスパスマンを実践した。
エスパスマンとは、「間隔化」を意味し、余白を作り出す行為である。
20世紀後半までの思想は、そのどれもが、「書かれたもの」のみに注目してきた。
「書かれていないもの」や「欄外のもの」「余白」は、ただ読めない、読んでも意味がないし、何よりそこに意味づけすること自体が虚しい、などといって、概念的には迫害され続けてきた。
例えば、男性史としての歴史が、女性史を余白へと追いやっているのも、実はエルゴンの暴力/権力構造によるのである。
パレルゴンとは、カントの『判断力批判』を読解していたデリダが再発見した概念で、実はこれに最初に注目したのは、おそらく「カント」である。
カントはこの美学論の中で、「絵画の作品における、額縁の役割」について考察している。
額縁とは、作品の外であり、基本的には不必要だが、展覧会には「あった方が見栄えが良い」。

絵画作品がエルゴンであるとすれば、その額縁はパレルゴンである。

実は、このような例は幾つも存在する。

私は「余白」の概念に巨大な光の可能性を見ている。
それは、今日の、本当に情けない現代文学の惨状を打破する、唯一の、そして無限に可能的な概念である。

デクパージュ


デクパージュについて

パレルゴンを救い出す操作概念として、エスパスマンの他に「デクパージュ」がある。
デクパージュとは「切り抜き」である。
切り抜かれた元のテクストは、その部分だけ最早読むことができない。
上のグーテンベルク聖書の名高い1ページ目の切り抜かれた部分は、無論「聖書」であるので他のテクストによって代補させることは可能である。
だが、デリダが主張しているのは、むしろ「書き込み区域」から引き離された概念としてのパレルゴンを作り出す「デクパージュ」という操作概念である。
真理は、書き込み区域にだけ宿るものであろうか?
デクパージュされたテクストの、最早喪失されてしまったそのフラグメントに、「想いを馳せる」というエステティックなコードにも、この概念は派生している。
真理は、書かれたもの、現前しているものにだけ到来するわけではない、という逆説をデリダはこれらの多用な概念によって一貫して主張しているのだ。

折り目


デクパージュと同じく、「折り目」も「現前しないテクスト」というテーマ系で一貫している。
折り返されたページの、その折られてしまった部分のテクストは、最早読むことができない。
読めない、ということは「隠される(クリプト化)」されることであり、ひとはそこに何か「テクストの聖性」を意味づけ始める。
デクパージュも折り目も、共に現前する書記素に「パレルゴン(作品外)」という概念を明記させるために編み出された操作概念である。
折られた部分、折り込まれてしまって読めないテクスト、抜き取られたアルバムの一枚、破り去られた日記帳、新聞紙の意味の通じないデクパージュ――これらが、パラドキシカルに「真理」として到来する、これがデリダの最大のフッサール批判の核心に他ならない。
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