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07/22のツイートまとめ

afterfinitude01

あとね、政治哲学については千葉はほんと大したこと何も言わないんだなと思いましたよ、正直。本当に私たちが読みたかったのは東と浅田に國分と大竹を加えた真剣な政治討論。飾りはいらない。
07-22 20:46

ただ、カトリックである私からすれば、デリダの歓待論の政治的無力はそのままカトリック批判にも繋がるわけで、やや複雑ではある。私は今書いてる論文で完全に自分の宗教性を脱臭しているけれど、どこかにそれは痕跡として残る。そこが逆に言えば、デリダに回帰する私の性なのかもしれない。
07-22 20:38

東については批判も多いが、少なくともデリダから出発して後期デリダの政治論(実質的には政治概念を借用した倫理論)の弱点にまで踏み込むところは、最近ほとんど政治哲学漬けの私としてもかなり高く評価して良いと思う。ローティの反デリダ論(ムフ主催のあの討論会)は私も正当性が高いと思う。
07-22 20:32

『新潮』「ポスト・トゥルース時代」についての浅田×東×千葉の対談を読む。最近の野生のデモクラシーを「否定神学的」だとして批判する東の観点は私たちの世代にとって重要。この文脈でデリダの歓待論も政治的に無力だとして批判される。その上でローティの連帯論には肯定的。
07-22 20:28

RT @lunar_shirayuki: 『斜の怪(ハスのかい)』第壱号これしか持ってないけど… https://t.co/BekKuCzqbi
07-22 17:42

私は基本的に、勉強からの真の解放、あるいは自由は「勉強する過程」の中でこそ獲得されると思っている。勉強が楽しくないこと自体、勉強が下手な証。
07-22 17:37

先日、たまたま学生が「夏休みに勉強をサボったかどうかは二学期ですぐにわかる」と口にしているのを耳にしたけれど、こう口にできるということは「夏休みは遊びたい」を抑圧して勉強してるんだろうね。この時点で必ずどこかで反動が起きてしまうよ、その勉強のスタイルは。
07-22 17:34

ナンシーは私の中でデリダの弟分的な位置付けだったけれど過小評価かもしれない。『死を与える』より数年前に既にナンシーは政治哲学的な方向性で思考し始めていたのか。
07-22 17:15

ナンシーの80年代の「政治」論を読んでいると、彼が語っているのが実質的にメタ・ポリティークの倫理であることがわかる。久々に胸が震えるような感銘を受ける本に出会った。
07-22 16:58

私は基本的に、民主主義の実践は単なる単発的かつ離散的なデモに還元されるわけではないと思うし、デモに参加する行為自体が一度は精神分析の次元で解釈されるべきだと思う。特に現代美術の政治的傾向と同じ文脈でデモが肯定される場合、「享楽」とその「挫折」の問題系は必要でしょう。
07-22 08:03



シュミットを民主主義理論に接続させる場合、ムフのラディカル・デモクラシーの弱点を把握しておくことが必要なわけだが、その理由はムフが最近のいわゆる「社会運動2・0」(社会運動のクラウド化)における野生のデモクラシー(SNS経由で国会前に集まるデモなど)の理論的背景になっているため。
07-22 07:55

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