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08/07のツイートまとめ

afterfinitude01

RT @Situations01: 「私は自分の映画の誰に味方することもない。…彼らをある種の——拒否感と言っては強過ぎるが、ある種の恐れを持って観察する。彼らが破局に向かって進むに任せる」ルキノ・ヴィスコンティ(1965年)
08-07 23:49

ヴィスコンティは批判対象を作中で解体するために、意図的に彼らの美意識を「纏う」(例えば『ヴェニス』のアルフリートや『地獄』のアシェンバッハ)という映画的文法を駆使するため、作中人物の美意識をそのまま監督本人の信念と素朴に同一視することは、よほど批評に疎い者以外できない芸当である。
08-07 23:44

アルフリートの問いに反して、人生はただ一つの統一的理念に還元されない。その人を体現する全体的思想や、臨終における要約的信念など存在しない。人生は統一性でも断片性でもなく、複数の観点が交叉し合う「多重性」(モル)であり、したがって本質的に混濁、攪拌され、異質混淆的なものである。
08-07 23:39

RT @Situations01: アルフリート「人生の瞬間瞬間を決定付ける自分の最後の行動や、全思想と信念を要約する自分の最後の言葉を考えてみろ……。あなたの最後の言葉は何だ?」ルキノ・ヴィスコンティ『ヴェニスに死す』(1971年)
08-07 23:28

以下のように再規定してもいい。言語を「天才的」に遊戯的次元へ降下するためには、単なる閃きや想念に言葉の武器庫を経由して「肉」を与える必要があり、この言葉の肉の実態とは「教育」に他ならない。逆説的ながら、天才とは徹底的な学習の過程で間歇的に湧出するインファンスの性格を持つ。
08-07 23:24

偽ロンギヌスを緩用すれば、天才とはピュシスとテクネーの混成である。換言すれば、単なる感性的な閃きや想念を「技術的鍛錬」によってある「形式」へと変換することであり、そのために必要な言葉の武器庫(諸々の修辞学や詩学など)を身体化し、それらを「遊戯」の次元へと降下させることである。
08-07 23:14

ヴィスコンティを深く理解した者になら今更言うまでもないが、アルフリートのような素朴なロマン主義者が宿すチープで青臭い天才神話から、いかに優雅に距離を取れるかが『ヴェニスに死す』が投げかける美学的な課題だろう。天才は反倫理にも稲妻の如き天啓にも病理学兆候にも還元されはしない。
08-07 23:06

RT @Situations01: アルフリート「邪悪は必要だ。邪悪は天才の糧だ!」ルキノ・ヴィスコンティ『ヴェニスに死す』(1971年)
08-07 22:58

RT @Situations01: アルフリート「叡智? 尊厳? それが何の役に立つ? 天才は天賦の……いや! 天賦の苦悩だ! 天来の才能の罪深く病的な閃きだ!」ルキノ・ヴィスコンティ『ヴェニスに死す』(1971年)
08-07 22:58

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