† キリスト教神学 †

今週のミサ Ⅲ

「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ 9.13)

ヤコブの祝福


    「ヨゼフの子たちを祝福するヤコブ, 1656」 by レンブラント

安息日の今朝は、赦しの秘蹟でした。
カトリック信徒は、年に一度受ける決まりです。
自分の心が「受けるべきだ」と思ったときには、できるだけ受けるべきだといいます。
さて、今日受けたのは、私のほか、一緒に洗礼を受けた女性三人でした。
勿論、聴罪室には一人ずつ入ります。

担当してくださった神父さまは、フェリックス神父さまです。
私は洗礼以後に、罪だと認識したものの中から、できるだけ今後の信仰にも繋げていけるものを大きく三つ決めて、紙に早朝起きて書き記しておきました。

これは信徒ひとりひとりにとって大切な問題ですので、ここでは具体的には綴りません。
けれど、今日は私の中で、とても特別な日になりました。
まず、私が罪だと思ってきたものが、実は罪ではなかったということ。
これは後からシスターさまに二人で珈琲を飲みながら教えていただいたのですが、晴れた新しい気持ちになり、前進できたと強く思います。

もう一つの点は、自分の「弱さ」を自覚した点で、これからは「聖書とイエズスさまの教えに従った“深呼吸”」を大切にする方向を与えられました。
そのためには、できるだけ「信仰」の妨げになるところから遠ざかること。
そして何より、相手の「こころ」を尊重すること。

さて、赦しの秘蹟、ミサの後はいつものようにシスターさまとお勉強。
私は先週も記していたとおり、ルドゥテの薔薇のカードを(画集から切り抜いたものです)プレゼントしました。
シスターさまはとても悦んでくださり、聖母マリアさまのような美しい笑顔で、「花って大好きなの」とおっしゃってくださいました。
シスターさまの素敵な笑顔が見れて、今日は本当に嬉しかったです。

ミサは、神父さまがおっしゃられたとおり、私の「母」に捧げました。
母にそれを帰宅してから語ると、涙ぐまれて、絆は深まったと思います。
妹は今日は彼氏とデートで、弟もたぶん彼女とデートでしょう。
私はミサの帰りに、図書館へ赴き、メシアンの音楽を借りてまいりました。
今聴きながら書いております。

色々と「創作」のことや、「新しい仕事(園芸関係?)」のことで悩んでいる日が続いていますが、今日の赦しの秘蹟は、私の新しい出発点となりました。
「自分の居場所がない」と悩む人は、怠っているのではないということです。
それは罪ではない、とシスターさまがさり気なくおっしゃってくださいました。

シスターさまには、最後に「お体にお気をつけてくださいね」と笑顔でいいました。
すると、シスターさまも同じように素敵な笑顔で返してくださいました。
シスターさまにお花をプレゼントすると、私は心がとても薔薇色になります。
私は花が好きですが、美しい花は、「贈る」ためにあるのです。
ひとりで愛でることには、実はあまり大きな意味はないのです。
大切なことは、自分が愛しているものを、たとえ小さなものでも、大切なひとに「贈る」ことではないでしょうか。

ミサの御説教は、(実は今日の「聖書と典礼」の表紙は、なんとカラヴァッジョです)罪に関するものでした。
この世界には、罪を犯していない人などいないのです。
神父さまがそうおっしゃられることは、私たちにとても大きな救いを与えてくれます。
罰ではなく、「赦し」「愛」こそが、カトリックの生き方です。
罰はこの世界に存在しません。
存在するのは、愛しいイエズスさまの大いなる「赦し」「愛」なのです。

今、世界中で苦しんでいる多くの人たちに、少しでもイエズスさまの恵みをお与えください。
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