† キリスト教神学 †

Theology of the feminineーーヒルデガルト・フォン・ビンゲンの世界と、ローマ・カトリック教会の未来

KISS


フェミニズムとカトリック教会の教えの接点を探る

ヒルデガルトは、現代のカトリック教会とフェミニズムの相互のより良い未来形式を考える点で、極めて重要である。
キリスト教は、父性的な宗教ではない。
そもそも、「キリスト教は宗教ではない」。(ボンヘッファー)
キリスト教の、最も伝統のある、最高度に洗練された美しい教え、それがローマ・カトリック教会である。

カトリックとは何であろうか?
無論、洗礼志願者には、教会が無料で青色の綺麗なミニブックをプレゼントすることになっている。
つまり、「洗礼を受ける準備をするために、これからカトリックの要理を学びたいです」と、神父様なり、修道女様なりに告げれば、必ず担当の方がつくのである。
私の場合は、ある一人の修道女様に大変お世話になり、一緒に京都の修道院に出向いたりしたり、御誕生日の贈り物をプレゼントしたりもした。

カトリックの教えは、突き詰めれば、以下の三つにまとめられる。
つまり、「隣人愛」「赦し」「復活」である。
ボンヘッファーが「キリスト教は宗教ではない」と述べたのは、先の二つの点が、既に脱宗教化されつつあるからである。
小学校の国語の先生でも、「隣人愛」を教えることはできるし、「赦す」ことの大切さを聞かせることはできるのだ。
つまり、「隣人愛」と「赦し」という点で、キリスト教はむしろ固有名を喪失し、普遍化されているのである。
だとすれば、残された三つ目の「復活」にこそ、現代のカトリック教会の教えの本質――いわば、無宗教と差異が生起する地点――があると考える。
確かに、「復活」、つまり御受難に向われた主イエズス様が、三日後に死者の中から復活された、という「事実」――これを信じられないひとは、信徒ではないのである。

だが、今回、私が書きたいことは、実は「復活」ではない。
そうではなく、「キリスト教の女性的性格」なのである。

キリスト教は、何故「女性的」なのか?
逆ではないのか?
何故なら、福音書を書いたのは、おそらく全員が男性である。
共観福音書、及びヨハネのそれぞれは、一人ではなく各「グループ」が書き上げた、と考える説もあるが、聖書が「女性」について、「男性」よりも劣位の意味賦与をしている点があるのは避けられない事実である。
更に、十字架の祈りにおいても、「父と、子と、聖霊のみなによって」とある。
「父」とは神であり、「子」とはナザレのイエスであり、聖霊とはその第三の様態である。
これらは三つが同じものであり、したがって「磔刑」を受けたのは一人の人間であるだけでなく、神御自身なのである。

では、何故「母と、子と、聖霊のみなによって」とは祈られないのであろうか?
神は男性なのか?
神は女性なのか?
実は、神が男性であるなどという記述は聖書にはどこにもない。
神は男性でも女性でもなく、むしろ性差を超越されておられるのである。
だとすれば、神を「父性」と規定することは本質的に不可能なのである。
しかし、往々にして、初代の教父たちは、神を父性と結び付け、創世記のエピソードに因んで、女性を男性の付属的存在者、従属的な存在者として規定してきた。
「誘惑」や「罪」の起源が女性と結び付けられ、男性は逆に神の「ロゴス」や「理性」と結び付けられた。
女性は「感覚的」であるがゆえに、気分に流されやすく、理性からは遠い、つまり神のロゴスからは隔たっている、とみなされてきたのである。

これは、フェミニズム的な見地から見れば、大いなる誤謬ということができるであろう。
というのは、どういう性質が「女性」であるか、どういう性格が「男性」であるのか、といった事柄は、文化/社会が作り上げる装置だからである。
「我々は女性には生まれない。女性になるのだ」。(ボーヴォワール)
ジュディス・バトラーの言葉を借りれば、
「セックス(生物学的性差)は、常に既にジャンダーである」からだ。
セックスというのは、実は「意味」なのである。
ジャンダーは、「意味」の工場である。
つまり、社会規範や文化の価値規範が変革を来せば、当然ジャンダーも変革されるわけだ。
すると、セックスも変革を来す。
ジャンダーがセックスに意味を与えるのであり、セックス(私は女として生まれたから女らしく生きるべきだ、などという言説は生物学的決定論である)とは二次的な文化の生産物に過ぎないのである。
だとすれば、教会が女性を「家庭の善き母」に縛り付けること自体、既にジャンダー・アイデンティティの権力だと規定できる。

このように、まず神が性差を超越し、女性が男性の劣位的な存在者ではない、と改めて述べておく必要がある。
むしろ、イヴ原則に従えば、男性こそが女性の二次的形式なのである。
胎発生時の全ての胎児は、初めに女性なのである。
しかし、未だに我々の現代社会では、細胞的なレヴェルで、「女性」を排他的に扱う領域が存在する。
内閣総理大臣が男性であるのも、女性議員の数が少ないのも、企業で女性が事務員としての仕事を与えられ、男性との競合的な企業発展へと向えないのも、全ては未だに「フェミニズム」(現代はフェミニズムの論客自身が内的批判を展開してもいるので、ポスト・フェミニズムの時代とも称されているようだ)のことを知らない男性が圧倒的多数を占めていることに由来する。
そもそも、何故「女性司祭」が存在しないのか?
何故、修道女だけが存在し、彼女たちは聖堂の深奥の説教台で信徒に講話を展開できないのか?
何故、教会は「神父」がミサを司り、「修道女」がミサを切り盛りできないのか?
このように、現代の教会でも、性差を意識した隠されたる「不平等」が平然と存在しているのである。

このような女性性への、なかなか浮上しにくい領域にメスを入れるのが現代のフェミニズムであり、そして、近年急速に再評価が高まっているのが、中世における最高のキリスト教女性神学者であり、幻視者でもあった、聖ヒルデガルト(ヒルデガルト・フォン・ビンゲン)に他ならない。
彼女はフェミニズム的な見地をカトリックの教えと照合させ、その未来を思考する上でこの上なく重要な示唆を与えてくれる。

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それでは、以下、聖ヒルデガルトが時の教皇を感動させたといわれる、名高い言説の中枢項目を展開する。

【creatrix(クレアトリックス/女性の創造主)】

ヒルデガルトは、神の本質を、宇宙を包み込む子宮として把捉した。
これは神に「母性」的な側面を見出す概念であり、これまで追いやられてきたキリスト教神学内における「女性性」を快復させる戦略素である。

別の表現では、彼女はこれをmateria creaturae(創造の母体)を規定している。
この創造の母体こそが、「聖愛」である。

【Charitas―Maria―Ecclesia(女性的な三位一体)】

「The Three Graces」 

「The Three Graces」 by RAFFAELLO and CRANACH

ヒルデガルトは、三人の神聖な女性を幻視した。
一人目は、カリタス(聖愛)である。
二人目は、マリア(神の母)である。
三人目は、エクレシア(教会)である。
カトリック教会は、いわばこの三人の女性たちの温かい胸元で安らうことのできる領域である。
それだけでなく、ヒルデガルトにとって、この女性による、女性だけの三位一体こそが、キリスト教の隠されたる本質であった。
三人の女性に囲まれた信徒たちは――つまり全ては女性から始まるのだということ――ヒルデガルトの幻視に来歴がある。
彼女はこれらの三人の母親のビジョンを実際に見たのであった。

【世界の起源としてのmateria】

ヒルデガルトにとって、世界の起源とは、常に既にマテリア(母体)である。
Materiaは、mater(母)/matrix(子宮)へ分解できる概念であり、要するに先述した「クレアトリックス」が存在するのである。
ここで重要なのは、キリスト教を、つまりナザレのイエスを、ヒルデガルトが「女性性」の概念に帰属させて把捉している点である。
ナザレのイエスの生物学的性差は「男性」であったが、そのセックスは、当時の社会/文化のジャンダー・アイデンティティの虚構物に過ぎない。
すなわち、ナザレのイエスは、その発言、その行いだけを純粋に見ると、別に男性でなくともかまわないのである。
かくして、神のロゴスは性別を超越する。
ヒルデガルトは、ナザレのイエスを女性だったと確定するのではなく、彼が、すなわち神が、「女性性」を本質として持っていることを解明しているのである。
これは従来のカトリックの教えの起源に踏み込む革新的な箇所であり、極めて重要である。

【フィロソフィア(哲学/intellectus quarensfidem(知を求める信))という女性】

ヒルデガルトにとっては、「哲学」さえもが女性として把捉されている。
哲学、つまりフィロソフィアとは、カリタス(聖愛)へと到るまでに必要な道であり、通過点である。
哲学は完成形態ではなく、彼女はキリストまでのプロセスなのである。

【Mater Ecclesia(マーテル・エクレシア/母なる教会)】

キプリアヌスは、「教会を母に持たなければ、神を父に持つことはできない」と明言している。
反フェミニズム的な側面がある聖アウグスティヌスも、やはり「マリア」をヒルデガルトと同じようにマーテル・エクレシアとして規定している。

先述した、ヒルデガルト流の聖愛を核にした三位一体関係からいえば、マリアの本質とはカリタス(聖愛)であり、カリタスの本質こそがエクレシア(教会)なのである。
これら三人の「女性」は、実際にビジョンを持ってヒルデガルトの意識に到来し、やがて書き物として後世に伝えられるに到った。
つまり、「マリア―カリタス―エクレシア」とは、フェミニズム神学における基礎コンセプトであるだけでなく、キリスト教に内在するファロゴセントリズム(男根ロゴス中心主義)を脱構築するために必要な、地下水脈なのである。

「洗礼」は、教会という女性が志願者に与える最高の母性的行為として規定された。
ヒルデガルトにとって、このような理想的な教会こそが、primitiva Ecclesia(原初の教会)であり、この教会という女性は、永遠なるViriginitas(処女性)である。
マリア、エクレシア、カリタスという三人の女性神学的の中枢的存在は、三者全員が「処女性」を有する、気高く純潔において一貫している点で共通している。

ヒルデガルトは、「処女性」を、最も天国に近い状態であるとして、vita angelica(天使的生)と規定している。

【Motherhood(母性)】

世界の起源に存在するのは、エクレシアの子宮である。
それは、ヒルデガルトにとって、femina forma(原初的な女の形)としてイメージされた。
ナザレのイエスは男性であるが、御子のdivinitas(神性)は、間違いなくmotherhood(母性)と不可分に結合しているものなのである。

換言すれば、神とは、spiritual motherhood(霊的母性)そのものである。
神は、子宮だけでなく、breast(乳房)をも有するとヒルデガルトは考えた。
我々カトリックの信徒は、神の聖なる乳の恵みを受けて、毎日を送っているのである。
全ての人間は、それを知らないだけであり、実際は、全人類に神の聖なる乳の恵みが及んでいる。

ヒルデガルト研究者のバーバラ・ニューマン女史は、「母の愛の乳は、エクスタシーの魅了する葡萄酒となる」とすら述べている。
つまり、神とは母性であり、母性の本質とは聖なる愛であり、聖なる愛とは、恵みの乳なのである。

したがって、Mater Ecclesia(母なる教会)も、virgo Ecclesia(処女なる教会)も、同じものである。
いわば、我々二十一世紀の人間は、信徒であるかないかに関わらず、全員が、マリア、エクレシア、カリタスという三人の永遠の処女なる美しく気高いdomina(貴婦人)の乳房から流れる、恵みの甘美な乳を与えられ、その三人の胸の谷間の中で生活しているのである。

このように、ヒルデガルトの功績は、従来の男性的/父性的だったキリスト教神学を、根本的にfeminization(女性化)させた点で、天才的であった。
しかも、彼女は時の教皇を、その幻視のビジョンにおいて感激させ、教皇直々に「貴女の霊的な教えを後世に伝えるように」と命をすら受けているのである。
現代のローマ・カトリック教会は、聖ヒルデガルトの存在を重視してもいる。
それは、ミレニアム期に美しく活動された教皇ヨハネ・パウロ二世様が、熱心なマリア信仰の持ち主で、フェミニズムと神学の未来形に夢を馳せていたことからも伺える。
ヒルデガルトの教えは、かくしてtheology of the feminine(女性的なるものの神学)と規定されるのである。
彼女が快復させたのは、不当に扱われていたthe feminine(女性的なるもの)に他ならない。

【the feminine divine(神の女性的側面/女性の神的側面)】

上述してまとめてきたように、ヒルデガルトの教えは、救いそのものである。
それは、カトリックの世界を、厳格で、束縛的な父性的「掟」の世界に過ぎないと規定する従来の一般的通念を根本的に破壊する。
むしろ、カトリックとは、「柔らかい」のである。
カトリックの本質とは、マリア様の聖なる授乳の絵にあるように、本質的に母性的な恵みであり、ヒルデガルトはそれを田園的、かつ情熱的に描き出した。

聖ベルナールによると、「祈りとは、孤独のうちで行うエクレシアへのkissである」。
イザヤ書60章16節には、「あなたは国々の乳に養われ、王たちを養う乳房に養われる」と記されている。
これも、神が、原理的に三人の女性の聖なる乳であることの証左に他ならない。

また、これは近年のフェミニズム神学からもその核心として重視されている箇所だが、ホセア書11章の新共同訳による「誤訳」の問題がある。
その3節で、ヤハウェは「わたしなのだ、エフライムに、彼の腕を支えて、歩くことを教えたのは」と語ったことにされているが、ヘブライ語原文では、この「歩くことを教えた」の箇所は、正確に「授乳する」「乳を与えた」を意味する。

また、これは驚愕すべき事実であるが、実は同じホセア書11章9節に、ヤハウェが「わたしは神であって、人ではない」と告げている箇所があるが、この「人」の原語は、なんと「男性」なのである。
すなわち、鑑みて訳し直すと、「わたしは神であって、男性ではない」ということになる。
また、同じく8節には、「わたしは憐れみと共に熱くなった」と神ご自身が語られているが、この「憐れみ」のヘブライ語原語は、vehem(胎)であり、その複数形がvehamimi(憐れみ)になるのである。

決定的なのは、11節である。
ここでは、「わたしは彼らをその家々に住まわせる」と神がおっしゃられているが、この「家」の原意は、「母の家」である。
すなわち、ホセア書11章とは、ヒルデガルトの女性的な神学の証左となる最も重要な箇所であり、the feminine divine(神の女性的側面/女性の神的側面)の本質を見事に表現した有名な箇所である。

このように、ヒルデガルトは、女性性が有する癒し、救い、優しさ、柔らかさ、無邪気さ、無垢さ、気高さ、純潔さを賛美する。
それは、神学というよりも、むしろ「信仰」そのもの、「祈り」そのものである。
ヒルデガルトは以下のようにいう。

もし教会の乳房が乳を与えなければ、キリストの四肢(信徒たち)は全身が患うことになろう。

最初に神が「光あれ」とおっしゃって、光が現れた時、創造の手段とmateria(母体)は、<愛>だった。あらゆる被造物は、彼女<愛>を通じて創られたのである。



今回の「まとめ」を書き上げる中で、私が強く意識したのは、ヒルデガルトが把捉した女性による三位一体の幻視である。
人間は、どのような状態であれ、どのような場所にあっても、常に神の母なるマリア様、母なる教会であるエクレシア、神の母性的本質であるカリタス(聖愛)という、三人の女性たちの胸に温かく囲まれている。
彼女たちの乳房から流れる乳を、我々は恵みとして受け取りながら日々生きていることは、忘れてはならない。

処女(マリア)は、御自分の上にかがんで温められる聖霊の温もりによって、御子を生まれた。雌鳥の温もりがなければ雛鳥は卵から孵らないように、マリアも聖霊の温もりがなければ御子を生まれることはなかった。

洗礼とは、エクレシアの最高の母性的行為である。







A Mothers Pride

ヒルデガルト再考―Bernard Silvestrisの神の女性性「Noys」との連関について―

「世界のmateriaは、神の御意志の内に存在した。
というのは、御業を達成するために神の御意志が啓示された時、世界のmateriaはまさに神が願われるがままに、御意志から暗く形がない球として発出したからである」

        by ヒルデガルト・フォン・ビンゲン



ヒルデガルトのいう、このマテリアというのは、前回も記したように、「materia creaturae(創造の母体)」のことである。
ヒルデガルトが、キリスト教の父系列エコノミーをディコンストラクトするに当たって用いた諸々の概念は、どれも重要である。
列挙すると、

materia(マテリア)・・・世界創造前の万物の母体を意味する。母体とは、世界が女性として把捉されていることを前提とする。

mater(母)・・・これは無論、聖母マリア様を意味する。聖母マリア様は、「Eve」を母型として、原初から存在しておられる神の女性性の象徴に他ならない。カトリック教会は、プロテスタント神学と異なり、女性原理をこの上なく重視する、とカトリックの記号学者ジュリア・クリステヴァは述べている。

matrix(子宮)・・・これが最も特徴的で、現在、我々が重要視している新しい創造論の理論的な基礎である。ヒルデガルトは、12世紀に宇宙原理をマトリックスとして規定していた。21世紀に、メディア学者のノルベルト・ボルツが、これを蘇生させている。彼は、Webのネットワークが、円環を描く「ハイパートラス」にまでやがては到達する、と述べている。この円環こそが、ヒルデガルトの述べていた、キリストの「網」を内包した世界=マトリックスである。ヒルデガルトは、12世紀のメディア論的創造論の最初の論客なのだ。


さて、このように、神学体系そのものに女性原理を設定する理論は、他にも沢山あるようだ。
ヒルデガルト研究の傑出した神学者である、バーバラ・ニューマン女史は、Bernard Silvestris(ベルナルドゥス・シルベストリス)の『Cosmographia(宇宙誌)』を先例としてあげている。
彼は、神の女性的人格を、Noys(ノイス)という言葉で表現していた。
このノイスは、fons luminis(光の泉)であると規定された。
神の本質であるこの「光の泉」から、万物の構成要素であるanima(彼はEndelechia/宇宙魂と表現している)が発出している、と考えられた。
これは極めて古いタイプの創造論であるが、「光の泉」を、「電子の光の海」として換言すると、Web2・0期の、半ばキメラ的なメディア論的神学のコンセプトが姿を現し始める。
我々は、12世紀の女性神学を評価するに当たって、それをたんに発掘するだけではない。
それを応用し、現代のメディア論と組み合わせて、新しい創造論/世界像を創出すること、換言すれば、世界を新しくデザインすることが、21世紀初頭の課題である。
それは、情報の海が毎日押し寄せては消えていく、この流動性の時代において、堅固とした理論的な視座を与えるものである。
我々は、それを自ら獲得し、脱構築的に模索せねばならないのだ。

ヒルデガルトの神学は、この上なく美麗である。
例えば、彼女はScientia Dei(神の知識)を、the feminine divine(女性的に神的なるもの)と等式で結んでいる。
ヒルデガルトという女性にとって、キリスト教は女性のものであり、女性原理から接近すべきものであり、それは男性からもアクセス可能なのである。
ここでいう「女性」とは、バトラー的に表現すれば、生物学的性差(セックス)のことではなく、言語身体的に獲得された、能動的なジェンダー・ディバイスである。
つまり、セックスは我々にとって、最早決定的なシステムではなく、言語身体のみが、不定形にあるのである。
ヒルデガルトを読む時、我々は女性になる。
否、ヒルデガルトを通して、我々は、女性として、世界に解放されるのだ。

「彼女(キリストの肢体、教会)は、永遠にその無傷なる処女性のうちに、すなわちカトリックの信仰のうちにとどまっている」



The Daughter of a Great Romance

アルシ‐マトリックスについて

世界がどのように創造されたのか、ではなく、どのような「デザイン」として現代世界にとって把捉されるべきか。
目下、我々は「創造論」というテーマを大切に考えてみる必要がある。

私は最近、非常によく思うことなのだが、世界は「子宮」と関連があるのではないか。
できるだけ例証を用いずに私は語りたいのだが、どのように記述すべきであろうか。
「子宮」は、聖ヒルデガルトの女性神学の術語では、マトリックスという。
このマトリックスは特定の女性の子宮を表現しているだけでなく、神御自身の子宮をも表現している。
マトリックスはミクロコスモスのデザインであり、同時にマクロコスモスへと繋がる。
これは、「子宮」というより、正確には「原-子宮」(アルシ‐マトリックス)と呼称すべきだろう。

子宮は胎児を育てる器官であるだけではない。
それは、胎児を発生させ、包み込む場所でもある。
古来より、グノーシス主義のあるセクトは、世界を女性のマトリックスとして把捉した。
これについては、典拠として『この世の起源について』と『シェームの釈義』をあげておきたい。

世界が仮に巨大な宇宙規模の子宮に包囲されているとすれば、我々はいわば、胎児である。
ここで私が気になるのは、ニューラルネットワークのことである。
ニューラルネットワークは、ニューロンを単位として相互に接続して拡大していく。
ニューロンは思考のフレームとして有効である。
ニューロンは脳の内部に存在する。
だが、世界を仮にニューラルネットワーク的な構造を持つ複数のシステム地帯であると規定すれば、それを包み込む「容器」が必要となるのは必至である。
私は、これを「アルシ‐マトリックス」と規定する。

例えば、街を眺めてみよう。
街は、領土と線で構成されている。
学校とは領土性に帰属される。
他方、高速道路や横断歩道は線である。
領土は、神経情報学的なフレームに還元すると、「細胞体」である。
線は軸索ないし、樹状突起であり、相互接続するシナプスである。
街とはニューラルネットワークの地理学的縮図である。

また、この領土/線を今度は宗教システムに当てはめてみよう。
ユダヤ教をA、その分派であるエッセネ派をA-1、ユダヤ教ナザレ派(後の原始キリスト教)をA-2とする。
この時、Aとは「学校」であり、A-1は「隣の建物」、A-2は「隣の学校」である。
これらは共に同じ街に存在する、すなわち、同じフィールドに生起した「意味/領土」である。
重要なのは、これらを相互に結合させているリゾーム的(ニューロン的)な「線」の錯綜が存在するということである。
ユダヤ教は領土であり、キリスト教はこの領土と連結されたる領土である。

このように、全てのエリアには何らかの領土/線的フレームが存在する。
だが、こうしたニューラルネットワークの逃走線エリアを全て内包するマトリックスが存在するはずである。
それは、「卵」といっても良いだろう。
世界は「卵」的に把捉することができるのだが、その場合、その殻の内部構造は、多層的かつ位置ズラシを可能にする流動的なニューラルネットワークである。

このように、人間の生活世界で見られる領土/線的フレームが、宇宙規模にまで拡大した時にマトリックスに内包される、という創造論は、私のオリジナルではない。
先駆者としては、キリスト教正統派から「パレルゴン」へと追放され、現在再評価が目覚しいグノーシス主義の「女性原理」を有するあるセクトの匿名作者たちが存在する。
ただ、子宮/卵の内部に領土と線のフレームを組み込む、という着想は、私がノルベルト・ボルツの「ハイパートラス(円環化するサイバースペースのネットワーク)」を結合させたものである。
子宮を開くと、内部には極めて複雑な、しかし原理としては最小単位のニューロンにまで遡行可能なシステムが存在するという視座である。

なぜ「女性原理」なのか?

マトリックスは、どのように世界を創造したのだろうか?
グノーシス主義では、神はピスティス・ソフィアという女性的創造主であり、最初に創造されたのはアダムではなくエヴァである。

Lucas CRANACH the Elder 「EVE」

Lucas CRANACH the Elder 「EVE」

これはキリスト教神学に内在する「男性原理」を位置ズラシする有力なポスト・フェミニズム的な視座であり、聖書学者の、とりわけ女性知識人たちからも近年再評価され始めている。
ピスティス・ソフィアという神の女性名であるが、ピスティスとは「信仰」を、ソフィアは「智恵」を意味している。
いわば、信仰と智恵の神格化された存在であるが、これは聖典の智恵文学において、「智恵」の三人称が「彼女」であることとも連関を有する。

アダムに息吹を与え、彼を立ち上がらせたのは、父ではなく「大文字の母」である。
アダムは彼女、すなわちピスティス・ソフィアを謳歌した。
それはメロディーに近い。
エデンの園で最初に奏でられたのは、アダムが彼女を謳歌する歌声だったのである。

注意しておくべきは、グノーシス主義において、我々は「女性原理」を有する文献に価値を求めねばならないということである。
グノーシス文献(ナグ・ハマディ文書)には、他にも沢山のセクトが存在しているが、往々にしてそれらが持つ本質的な要点が「女性原理」なのである。
中世最大の女性神学者である聖ヒルデガルトも、やはりナザレのイエスを「女性性」を有する存在者として把捉している。
イエスは男性ではなく、彼女の認識論的視座に立てば、女性である。
それは、彼女が神を女性として把捉していることからしても明らかである。
theology of the feminine(女性的なるものの神学)は、聖ヒルデガルトだけではなく、グノーシス主義の「女性原理」を有する書物にも見出されるのである。

A Moment for Reflection 

まず、今日のミサのことから書き始めよう。
今日、私は聖書朗読を生まれて初めて任されることになった。
朗読したのは列王記であった。
巧く語れたのか定かではなかったが、ミサ後に婦人さんたちが感謝の言葉を贈ってくださり、私は心が至福で満たされた。
私は、自分が教会の先輩の信徒さんがたの前で読むことによって、気付かされた。
それは、私たちが、「聖なる愛」のさ中に立っているということである。
ある私が尊敬する婦人は、「瞼を閉じて聞いていたんだけれど、まるでエリヤが貴方に宿ったみたいに、なりきっていたわ」とおっしゃられ、そういう語り方に好感を示してくださった。
私は緊張のあまり、全てを忘れて、無心で読んだのである。
その結果、今日だけで七人の先輩の女性と笑顔で「信仰」を分かち合うことができた。
初めて私たちの教会に来られた、同志社の女子学生三人もいた。
多くのひとが、「愛」の完成のために、教会の至福の共同体になることを、私も一人の二十一歳の信徒として願っている。

また、カトリックの機関紙を作っておられる、ある優しい婦人さんから、「原稿書いてくださらない?」と依頼を受けた。
私は、これは主に与えられた「奉仕」であると感じ、快諾した。
彼女は「嬉しいわ」といっておられた。
テーマは、「洗礼を受けたこと」だというが、私は真剣にこれを書き、一人でも多くの方に喜んでいただけるようなものを書くつもりである。
初めて私が書いたものが、多くの人に読まれる機会になるかもしれないので、私はこの上なく本気になる。




さて、今日のミサでも私は改めて確信したが、それは、「祈り」と「愛」こそが世界の原理であるということだ。
そして、私は、現代世界のカトリックとして、「女性性」の概念の救済・復権にこれからも思考の全てを捧げたい。
「女性性」とは、換言すれば、「パレルゴン」とも表現できる。
世界史において、男性よりも重要な役割を常に果たしてきた彼女たちが、余白へと追いやられて語られてこなかったことは、不条理である。
だが、21世紀の現代は、エレイン・ショウォールターが述べたように、「女性文学のルネサンス」ともいわれている。
ラカンは、「起源の他者」を「大文字の女性」、すなわち「母親」であると規定した。
女性とは、私にとって、真理であり、信仰の核心である。
世界は、女性のために存在する。
「教会」がラテン語で女性名詞であることは、けして偶然ではない。

ナンシーは、『世界の創造あるいは世界化』という、21世紀初頭の創造論において、我々読者に、新しい創造論の「デザイン」を形作ることを推奨している。
創造論の本質は、私にとって、「女性原理」に依拠する。
これについて、私は少しフッサールとデリダの思考を紹介しておこうと思う。

フッサールは、以下のようなこの上なく「子宮的」な言説を展開していた。

各々の有限的基体は、<何かの中にある存在>として(als In-etwas-sein)規定できる。



フッサールは、「エポケー」という操作を発明した最初の哲学者である。
エポケーとは、世界を( )に入れる操作を意味する。
世界を全て遮断した以後、何が残るのか?
彼はそれを「純粋意識」だと規定したが、実は私は現在、この見解に批判的である。
彼は晩年の『幾何学の起源』で、やはり幾何学的公式よりも、「意識」が先行すると断定しているのだが、私には青空に数式が潜在しているように思われる。
つまり、意識以前に、数学的法則が存在しているのである。
デリダの初期のフッサール論『フッサール哲学における発生の問題』でも、今のところ、私が読み進めている限り、この問題には深入りしていない。
だが、意識に数式が先立つ、という私の考えは、フッサールにしてみればエラーである。
フッサールは数学者志望者であったが、論理学と心理学の狭間で懊悩し、結果的に、フェノメノロギーの創始者となった。
フッサールは「数学」を遮断しているのであり、世界の起源に「意識」を認める点では、心理学拠りである。

私がフッサールに批判的になり始めたのは、彼が「世界の起源」すなわち、「創造論」をデザインしていない点が甚だしく目立つからである。
若きデリダも、やはりフッサールの「起源」に関する考え方に依存している。
先に引用した、「世界」が何かに包まれている、という定式を、フッサールは、その大なる世界も、やはりより大なる何かに包み込まれていると、いわば「入れ子構造化」させてしまうのである。
デリダもこれに賛同し、完全にフッサールの「入れ子」式思考回路の罠に陥っている。
だが、これは、私から見ると、一つの解決策によって根本的に新しい発展形式へと導かれる。

それは、「ウロボロス」という概念である。
ウロボロスとは、一匹の蛇が自分の尾を食べようとしているグノーシス主義によく見受けられる絵である。
蛇は円環を描いている。
この円環においては、「発生の起源」に、特異点として何か場を穿つことなどできない。
ウロボロスとは、起源のない円環であり、出口も入口もない世界構造である。
フッサール、及びデリダが、「起源に廃墟が到来する」という公式において共通する時、二人は、無期限に増殖する入れ子の内部で苦しんでいるのである。
だが、「ウロボロス」では、出発点は、終着点へと帰還する。
したがって、無限に起源が「不在」であるという彼らの提言は、「循環」的なウロボロスの図で把捉すると、見事に解決されてしまうのである。

ここまでが、フッサール/デリダの「創造論」である。
彼らは「包み込むもの」が何かにまで入り込まない。
だが、私は、この包み込むものを「マトリックス」と規定する。
ウロボロスの循環的構造は、子宮の内部に存在する。
こうして、原始現象学における「発生」の問題は、文字通り、胎発生的な「子宮論」へと到達するのである。

先述して、私は、青空には何らかの気象学の通奏低音となる数学的公式が潜在している、と述べた。
その公式を発見するのは、フッサール曰く「意識」であるので、やはり世界の起源は「意識」であることになる。
だが、仮に彼の編み出した「エポケー」が正しいとしても、では、その「意識」を構築するのは誰であろうか?
これは、いうまでもなく、起源の「他者」である「大文字の女性」なのである。
「意識」の原型とは、母親の「意識」である。
これは、世界の原型とは、「世界の母親」の「原型的意識」である、と置換できるであろう。

更に「女性性」を快復させる調査、探索は必要ではあるが、目下、我々には二つの重要な概念が登場した。
それは、世界の起源としての、「マトリックス(子宮)」である。
そして、その内部に存在する、円環的なネットワークとしての、「ウロボロス」である。
マトリックスは、ウロボロスをその内部構造として有する。
ウロボロスは、いわば巨大なシステムであり、ミクロな次元で視座を移行させると、一つ一つの単位としての「リゾーム/ニューロン」が現出する。
ニューロン的構造体が連結し、ウロボロス化する。
そのウロボロスは、マトリックスという宇宙の創造的起源である「彼女の子宮」に内包される。
これが、現在我々が創出しつつある「ポスト・ヒルデガルト」的なキリスト教神学、及び哲学的創造論の全容である。






視覚表象におけるヒルデガルト・フォン・ビンゲン 

Hildegard von  Bingen

おそらく、この美しい絵が最もよく彼女の姿を捉えていると思われる。

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日本ではほとんど知られていないが、ヒルデガルトは切手になったり、銅像になったりして馴染み深い存在になっているようだ。

Hild egard1

キリスト教の本質は、ヒルデガルト抜きには絶対に語れないと私は考えている。
特に男性の信徒が成人して洗礼を受ける前に、ヒルデガルトの研究書に目を通しておくことは推薦できる。
実際、教会に初めて入った時、男性は「子宮回帰」的な懐かしさを感じなかったか?
それを宇宙論として展開した最初の神学者は、彼女ただ一人である。



以下は、当時描かれたヒルデガルトの幻視の世界、すなわち女性神学的な宇宙論の視覚的表象の一部である。
フィオーレのヨアキムを含め、自身の思想体系を「視覚」的に表象する、という操作は極めてインターネット的ではなかろうか。
ヨアキム、ヒルデガルト、そしてブレイクは共に幻視的な資質を有していたと解釈されているが、実質的に彼らは「描かれたもの」から思想を構成していたことも大いに考えられ得る。
その場合、「描く」ということが、「思考する」ということと一致していたと解釈できる。


Miniatur  aus Hildegard von Bingen

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Hildegard_von_ Bingen_Liber_Divinorum_Operum




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~ Comment ~

こんばんは。

やあ、このヒルデガルトですけど新たに興味を持ちました。ありがとうございます。
まだ受洗なんて考えてもいないころFMラジオを何かやりながら聴いていたことがあります。
そしたらたまたまヒルデガルトを紹介して音楽をながしてたんです。
おもいっきり引き込まれました。
すぐにCD屋に走り、買いました。
あるかどうかわからなかったんですけどすぐに見つけて興奮した思い出があります。
ずいぶん前のことでCDも誰かにあげちゃって手もとにはもうないし、すっかり忘れていたんですけど、鈴村さんのブログを拝見し、また新たに興味を持ちました。
何か本を買ってみます。感謝です。
[2009/12/12 03:30]  トルメス  URL  [ 編集 ]

返信ありがとう

トルメスさん、ヒルデガルトを御存知とはさすがですね。
私は実はまだ彼女の音楽は聴いてないんです。
聴きたいのですが、たぶんネットで買うのが最速でしょうね。また機会があれば欲しいところですが、どういう感じのメロディーなんでしょうか?
ミサ曲とか、グレゴリオ聖歌とかなら、何度も聴いているので教えていただければ嬉しいです。


[2009/12/12 19:43]  鈴村  URL  [ 編集 ]

やあ、てれますなあ。(笑)
グレゴリオ聖歌と同じく基本的には単旋律で浮遊感がすごかったような気がします。
やはり時代が進んだものなので、多少はハーモニーめいた旋律も聴けるかな。
それからなんと言っても女声が聴けるところが嬉しいかもですネ。
おすすめはセクエンツィアの演奏のものです。
以前、このセクエンツィアの他のCDで「ボルテスホルムの聖母マリアの嘆」というのを持っていたんですね。それがものすごく良かったんです。なのでセクエンツィアをおすすめしたいと。
でも男声だと「あれっ!?」になっちゃうので確認してからまた報告しますネ。
今週中に買う予定です。
少しずつヒルデガルトの作品を色々集めてみるつもりでおりますです。
ガンガンヒルデガルト談義をしていきましょう!
[2009/12/13 15:49]  トルメス  URL  [ 編集 ]

コメント感謝です!

こんばんは。

さすが音楽やってはるだけありますねw
詳しい曲名まで教えてくださってめっちゃ嬉しいです。
ぶっちゃけ、たぶんヒルデガルト関連の話でここまで盛り上がれるのはトルメスさんだけな気がします。

お勧めはセクエンツィアで、特に女声ということですね。
研究者がいっていたのですが、ヒルデガルトはまるで20世紀の女性の神学者がタイムスリップして12世紀に向かったと思えるほど、その思想内容や多彩な活躍が現代的だと再評価されています。
特に、私は音楽面でもトルメスさんの影響で関心を持ちましたが、彼女の女性的な幻視の世界に関心がありました。
こんなことをいえば司祭たちは驚くかもしれませんが、私は彼女のいう「キリスト」が、実は「女性的身体を持つキリスト」であった気がしてなりません。



[2009/12/13 20:24]  鈴村  URL  [ 編集 ]

どうもです。

お役にたてて嬉しいです。私も鈴村さんが初めてですよ。クラオタの友人とかに話してもたいがいスルーですもん。(笑)
「女性の身体を持つキリスト」ですか。ふむふむ。
実は私も自分なりにトンチキではありますが、復活したキリストは女性なんじゃないかと考えてます。
槍を男性器と見ればそういうことかなあなんて。
本当に稚拙で恥ずかしいのですが、女性になることを要求されているのかなあと時々思います。
ユングの「ヨブへの答え」をよんでなんかそのように思えました。
それで鍵は女性原理かもと考えております。そこでヒルデガルト登場みたいな。
やあ、なんか支離滅裂ですみません。
それからついでに申し上げますと宮沢賢治って恐ろしいなあなんて。
「注文の多い料理店」とか「どんぐりとやまねこ」とかやはり女性原理が鍵だよなあなんて考えております。
やあ、整理するのが大変です。
[2009/12/14 05:54]  トルメス  URL  [ 編集 ]

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
[2009/12/14 10:34]      [ 編集 ]

トルメスさんへ

返信ありがとう。

あっ、ありますよね、ロンギヌスの槍=男性原理で、キリストの傷口=女性原理っていう考え方。
フェミニズム神学のシンボルとして、よく研究者のあいだで引用されたりしてますw

それにしても、宮沢に女性原理が流れてるという話は初耳で、「えっ!そうなんですか? 」と突っ込んでしまいました。
私は彼の銀河鉄道が好きなのですが、その理由はあの作品自体が限りなく福音書的だからですね。
特に「注文の多い料理店」の女性原理って、どういうことなんでしょうか?
良ければ教えてください。

とても興味が湧いてきましたw

※追伸

ケータイを持っていないので、もしかするとメールチェックの方に時間がかかってしまうことがあるかもしれません。
ブログについては、仕事先のパソコンから空き時間でも接続できるので、コメントはメールよりは早く返信できるはずです。

お手数ですが、よろしく御願いいたします。 v-255

[2009/12/14 23:18]  鈴村智一郎  URL  [ 編集 ]

突っ込みありがとう!(笑)

いや、「女性原理とは」がよく分かってないんですね私(自爆)(笑)
ですのでこじつけですけど行きますよ!
「猫」って記号的には「女」ですよね?
で「山猫」=「女」であると。
で「女」→「女性」→「女性原理」であると。
で「女性原理」→「女神信仰」→「ファリシズム」であると。
よって「注文の多い料理店」=「ファリシズム」であると。(笑)
「注文の多い料理店」は女性が誘惑する話と見てはどうだろうか?なんて。
こんな感じでどうですか?(笑)
とりあえずここまでが一区切りかな。
どうですか?この私のしょぼい幻視世界は。(笑)
[2009/12/15 20:17]  トルメス  URL  [ 編集 ]

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
[2009/12/15 20:30]      [ 編集 ]

どうもです。

でまあ、それででというか、ところでなんですけど、この「注文の多い料理店」ですけど「山猫に食い殺されなくてよかったネ!」なんていう話じゃないんだろうと思うんですね。(?)
では何かというと最後の扉はやはり開けるべきだったんじゃないかと考えてみたんです。
でも銃は奪われてるしすっ裸ですよね。おそらくは力ずくではない方法かなあなんて。
それで突入とか破壊とかいった男性原理ではなく女性原理が必要かななんて考えています。
考えてるんですけどこれが全然進まなくて。(笑)
ですので全体を女性原理で考え直さなきゃなあなんて。それが鍵かなあなんて考えています。
賢治をヒルデガルト進学で解明できないかなあなんて。
あとこの「注文の多い料理店」ですけど「ヨハネの黙示録」だと思うんです。(笑)
3章20節に「扉」と「食事」が出てきますよネ。
どうですかねえ。
なんか支離滅裂ですみません。(笑)
[2009/12/16 11:46]  トルメス  URL  [ 編集 ]

トルメスさんへ!

返信が遅れてすいませんでした!
帰宅時刻が夜の10時とかで、けっこう年末で忙しかったりしてたもので。
まあ、お互い様ですけどねw

思い出してきましたよ。
そういえばそういう話でしたよね。
初めて知った見解で、非常に印象に残りました。
トルメスさんはたぶん精神分析学的なアプローチが巧いのだと思います。

あの物語だと、「食われる」ことをほのめかすんですよね。
思い出すと、確かにちょっと誘惑的ですよね。
でも、こういう筋書きは古来の日本の伝承でけっこうあるような気もします。

私も「猫」=女性原理的な記号として解釈します。
「猫」の持っている「きまぐれさ」とか「無邪気さ」とかそういうのが、サロメ的な要素を持っているようにも感じられます。

[2009/12/18 04:31]  鈴村智一郎  URL  [ 編集 ]

こんにちは!
ご無沙汰していて、お久しぶりにお邪魔いたしました。
いぜん教えていただいたときは、ヒルデガルトについて、よく理解できなかったのですが、なぜか最近、気になり出して…内容に傾倒していくわたしがいます。
もしかしたら、今までの教会は父性的側面が強かったように思いますが、じつは女性的側面こそが、神さまの愛なのかもしれませんね。
それと(*^^*)
神学大全、貴方様にご相談させていただいて購入いたしました♡ホントいろいろと、どうもありがとうございます。また、こっそり、お邪魔するかもしれませんが、どうぞよろしくお願い致します!

[2014/05/29 19:53]    URL  [ 編集 ]

お久しぶりです^^

お久しぶりですね!
同じカトリックとして貴女の存在はよく覚えております。
最近私は大阪から東京に引っ越したのですが、教会としては関口教会が良いかなと感じております。
あなた様も御元気に信仰生活を送っておられるでしょうか?
ヒルデガルトの教えについて女性の方から共感していただけてとても嬉しいです。
とはいえ、彼女の作品は神学だけでなくフェミニズムの見地からも世界的な再評価が進んでいるようですよ^^
これから夏日になっていくらしいので、お互い健康管理には気をつけましょうね。
御時間がありましたら、またお話しましょうね〜♬
それでは、これからもどうぞヨロシクです。
[2014/05/31 19:49]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]















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