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02/12のツイートまとめ

afterfinitude01

カルナップの面白いところは、規範的倫理学が「殺人は悪である」と断言する際、論理実証主義的には「殺人」という行為から「悪」を演繹できないと主張するところにあったりする。心理学的、法学的命題からは可能でも論理的には検証不可能な場合、そのような命題は理論的内容を持たないとされる。
02-12 16:41

『エチカ』は確かに幾何学的な構成を持つ倫理学を企図しているが、これについてはカルナップ『論理的構文論』の観点から、それは検証不可能な疑似命題ではなかったかという批判も可能だと思う。カルナップによれば、命題P1が完全に検証できない場合、P1は「仮説」と規定される。
02-12 16:31

近藤によれば『エチカ』と『知性改善論』の決定的差異は事物を定義する上での方法論にこそある。前者では幾何学的定義によって「真である必要がない」(経験不可能な)ものも構成可能になったので、「実在性の極大」を扱えるようになった。数学の生成はスピノザにおいて神の確実性と等価なものだった。
02-12 16:27

近藤和敬「カヴァイエスとスピノザ『エチカ』のあいだに見出しうる一つの関係」(『主体の論理・概念の倫理』)読了。著者の論考に触れるのは『数学的経験の哲学』以来。カヴァイエスとスピノザは数学的経験を「叡智的なもの」として認識していたが、これはメイヤスーの相関の「外部」に通じる問題。
02-12 16:17

掌編「列車が走っている間に」は生まれてから死ぬまで列車内で人々が暮らすようになった世界で、「セイレーンの眠る浜辺」は女人禁制のアトスの修道院の浜辺に、一人の若い女性が流れ着くというもの。何かが特に起きるわけではない。ファーユの描く世界には安らぎと癒しを感じる。
02-12 13:17

「海からの風、青みがかった空でわたしは目覚めた。はるか昔の子ども時代の朝の甘美さ。それはとっても美しかった。おそらく、そういったことは再びはじまるだろう、なぜって、何もかもが同じなのだから。そう、あらゆるものは再開する」エリック・ファーユ「わたしは灯台守」(p169)
02-12 13:10

98年にドゥ・マゴ文学賞を受賞した表題作は、浜辺の灯台にずっと籠ってその生活記録を残している男が語り手で、ほとんど変わらない日常が綴られている。「語彙の没落」が起きても少ない言葉で満足できることを知ったとか、少年期のような幸せな日々は今後も訪れるだろうとか、平穏な描写が魅力的だ。
02-12 13:07

エリック・ファーユ『わたしは灯台守』の諸作品を読んでいると、俗世間から離れて隠遁できる心の居場所が共通して描き出されていることに気付いた。かなり読み易い内的独白の形式で綴られていて、随所に詩的な表現が光る。同時に「書く」ことの孤独が大きなテーマにもなっている。
02-12 12:58

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