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03/31のツイートまとめ

afterfinitude01

RT @Situations01: 「遠慮なく私をデカダンだと言いたまえ。もう馴れている。もはや決まり文句だ。この言葉を悪徳や不健全さで使われるのは困る。デカダンとは、芸術を理解し、味わい、作るためのひとつの“方法”に過ぎない。マンはデカダンだろうか? 譬喩としてなら首肯できる…
03-31 22:08

言及こそしなかったがヴィスコンティはおそらくシェリングの「悲劇的崇高」に(マンを経由して)取り憑かれていた貴族の一人であり、自ら罰を受けて自発的に零落する意志に美ないし自由を見出していた。その影響は『山猫』や『イノセント』はおろか『ベニスに死す』、『ルートヴィヒ』にも響いている。
03-31 22:02

小幡のメタバシス論は川島重成の『オイディプス王を読む』でのアレーテイア論に近似している。つまり両者ともに主体が没落しすべてを失うことによって彼がアレーテイアを開示し真の自由に到達すると解釈している。換言すれば悲劇における「傷」とは「栄光の証」である。
03-31 21:53

小幡さくら「シェリング悲劇論における『オイディプス王』解釈に見る人間的自由の承認」(『美学』no.248)読了。シェリングの「悲劇的崇高」概念に迫るだけでなく、メタバシス(変転)がいかにオイディプスにおける「自由の実現」の本質与件であるかを決定付ける非常に重要な論稿。
03-31 21:48

グロイスは多くの人が制作するのが一般化した昨今のSNS社会において、「制作と提示が同時に行われる」ことでニーチェの時代にはまだ存在した制作と提示に伴う時間的な「ずれ」(De-synchronization)の消失を問うているのだろう。つまりあの頃はまだ制作を神秘のヴェールに包むことが許されていたと。
03-31 21:28

RT @kenji_kajiya: 『思想』2018年4月号のボリス・グロイス特集に寄稿しました。「グロイスにおける芸術の制度と戦後日本美術」です。2017年1月に東大駒場で行われたシンポジウムの発表原稿を改稿しました。目次を見ると、表象文化論の関係者が多いですね。 https…
03-31 13:03

ドキュメンテーションとして日常が次々と公開され私秘性が透明化し易いTwitterの場合、グロイスのいう「アイデンティティの無への欲望」が増大する温床にもなりえる。そこでは作品も写真もツイートも個人単位での情報として消費される。だからこそロマン主義的な芸術観への回帰も起きるのだろう。
03-31 13:01

ボリス・グロイス「芸術の真理」(前掲)は去年駒場で開催された講演録。Twitter含めSNSが身近になった時代の芸術家の「貧しさ」のようなものを滲ませた特に印象的な内容だった。グロイスはけしてツールとしてのネットを否定していないが、やはり制作過程のリアルタイムには何らかの抵抗を感じている。
03-31 12:44

制度ないし形式の賦与が実質的に創造へと駆り立てるというグロイスの見解は「大衆による芸術制作の時代」の背景を掴む上で重要な視座だろう。前掲論稿では河原音がイデオロギーによる武装ともヒステリー的な表出とも異なる芸術表現に「自由」の在り処を探っていた態度との親和性にも言及。
03-31 12:33

加治屋健司「グロイスにおける芸術制度と戦後日本美術」(前掲)読了。グロイスの制度論に注目しつつ、制度の外部にあるもの(自由)は実は制度そのものにこそ存在するという逆説が提示される。国家や美術館といった制度も芸術にサブヴァーシヴな表現を稼働させるものとして肯定される。
03-31 12:19



星野太「〈生きている〉とはどういうことか」(『思想』「ボリス・グロイス特集」2018.04)読了。グロイスのart documentationを近年の人類学やSRの文脈に接続する重要な試み。非人間的なもの(人工物含め)も「物語る」ことによって「生」を獲得する。グロイスが生の哲学の系譜で新たに解釈される。
03-31 12:12

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