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06/04のツイートまとめ

afterfinitude01

一番作ってみたかったのは、本当は洗礼者聖ヨハネ(私の洗礼名)の人形だったが、人間のかたちはとても難しく、片足と十字架以外は失敗してしまった。でも真っ白な粘土から何かオブジェクトを作り出す作業は本当に楽しいということを知った。またチャレンジしてみよう。 https://t.co/cIQROmSYF4
06-04 23:35

『ミューズたち』に感化されたのか、私も何か「触りながら作ろう」と思い立ち、僭越ながら樹脂粘土で色々と作ってみることにした。葉脈をヘラの先端で刻んでいる瞬間、自分がどうして草花に惹かれるのか少しだけわかった気がする。 https://t.co/8T35GSXmim
06-04 23:26

ナンシーの触覚の概念は端的に物自体についてのOOOの議論とも密接に関係しているので興味深い。彼は「場合によってはある事物が内在性あるいは内奥性のような何かを持つ」(p42)ことを認めつつ、オブジェクト同士の関係を共同性や共感ではなく中断/離散モデルで捉えている。
06-04 23:16

『ミューズたち』を読みながら考えていたのは、石井洋二郎の論稿「唇・皺・傷――マルドロールの〈身体なき器官〉」(『身体のフランス文学』)で展開されるgriffer(ひっかく)とgriffoner(殴り書きする)の語義的類縁性の問題。エクリチュールの本質とはまさに「ひっかく」という触知性にこそある。
06-04 23:03

ナンシーの現代芸術への評価は『キリスト教の脱構築』や『アドラシオン』で展開されたポスト・アジョルナメントの議論に類似したリリシズムを漂わせていて、読みながらボルタンスキーやキーファーを連想していた。それはvestigiumの用例を聖トマスから引くようなセンスにも垣間見える。
06-04 22:56

ミューズたち(芸術)の膚に指先を伸ばしてもけして触れ得ないのは、芸術そのものが事物の模造ないし「残骸」(vestigium)であるからだとする議論(五章)は、デリダ『火ここになき灰』の新たな読み方として非常に斬新だった。ミューズたちは「火のない煙」としてのみ構成されるということ。
06-04 22:44

「帯域の離散がないのなら、世界もないだろう」(p42)はこの文脈で理解できる。二章のヘーゲル批判に繋げれば、ミューズたちとはこの離接的綜合の力(中断を経た新たな触知性の獲得)を指す。ナンシーはそれをあくまで視知覚性優位の絵画ではなく、作品化すらされていない「触れる」ことに見出す。
06-04 22:36

フロイトの性感帯論を美学的に応用して審美主義批判を構成する議論も非常に重要。例えばデカダンを至高の審美的価値にすることは、一つの性感帯の内に遮蔽されることを意味する。これを回避するためには性感帯を拡張すること──つまりある美的審級をいったん中断して異質性へと横断する必要がある。
06-04 22:28

RT @dessinatrice001: 「ベルクソンの純粋知覚理論とはいわば、減算的な知覚の理論である。その賭け金は、知覚の内にあるものは物質の内にあるものよりも少ないということ、représentation(表象)がprésentation(現存)よりも少ないことを立証する…
06-04 22:20

J.L.ナンシー『ミューズたち』読了。有限性を触知性として捉える視座が各章に通底しており、その核となるのが「中断」(遮蔽/切断ではない)の概念。物に素手で触れるとは、その物との間で知覚の「大規模な無関心」(メイヤスー)が生じることであり、これがナンシーの「触覚の間隔」に相当する。
06-04 22:19

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