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09/15のツイートまとめ

afterfinitude01

この限りで事物は常に退隠している(ハーマン)。あるいは、世界は常に自然の斉一性を打ち破る(メイヤスー)。それは外が内との関係においていかなる恒常性も常に破棄し得るということに他ならない。外は内を裏切る。あるいは、内は常に外によって貧しくなる。
09-15 13:07

猫の微笑には、猫という対象が内在する無限に豊かな平面の中から、ある一つの部分が外部環境と創発して外へと押し出される(反り返る)ことであるが、それは必ずしも内=外ではない。内は外よりも無限に豊かな潜勢力を持っている。外化とはその一つが選択され表象を伴って知覚されるだけに過ぎない。
09-15 13:05

外=内を等号で結んでしまうのは古くはパラケルススの特徴表示説に見られるし、表象文化論系統でも例えばディディ=ユベルマンは隠されたものは必ずどこかに代替物形成されるとフロイトを経由して述べていた(『ヴィーナスを開く』)。こういう思考こそまさに、SRが葬り去ろうとしているものだ。
09-15 12:58

要するにメルポンへの批判はドゥルーズにもそのまま妥当してしまうということが一点。
09-15 12:51

しかもドゥルーズは内と外を存在と思考という極めて相関的な要素にまで還元してさえいる。にもかかわらすメルポンの相互包摂は客体を主体の志向性へと偏重的に折り畳んでいると批判している。これはメイヤスーがドゥルーズを主観主義的だと批判した理由になっているのではないか。
09-15 12:49

仮に内在は外に出ているのだと仮定する。その場合、猫が幸せそうな顔で寝ている(外)のは実際に猫の生体機能が十全に機能しており健康的に安眠していること(内)によって「絶対的な」説明を与えれてしまう。花が美しいのは土壌と光の豊かさに。要するに内の特徴は全て外在化しているとみなされる。
09-15 12:45

モンテベロは一義性と内在をドゥルーズ哲学における二つに独立した双璧として位置づける。その上で外と内の襞、折込に内在の極点を見出す。けして「外部とは内部である」とまでは言わないが、少なくとも絡み合いによる内部の外化を認めている。
09-15 12:39

モンテベロのドゥルーズ論は非常にうまく整理されており、ドゥルーズの哲学を理論的に理解する上で必読だと思われる。ただ、少なくとも私が見つけた限りで一つ、非常に重大な見落とし、ないし盲点がある。それはp75のメルロ=ポンティによる外と内の相互包摂を批判する箇所で浮き彫りになっている。
09-15 12:34

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