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10/18のツイートまとめ

afterfinitude01

そういえばヴィスコンティ論でも書いたのだが、『熊座』がなぜ全ての物語が終幕した後の廃墟のような寂れた城館を舞台にしていたのか──これを『イノセント』ないし『家族の肖像』の「事後性」として読み直すことはやはり必要かもしれない。全ての作品は熊座の悲劇に流れ着くのだ。
10-18 23:30

RT @Situations01: 「もしも私の意図が成功しているならば、『熊座の淡き星影』は、今日考えられている以上にますます、私のこれまでの映画に類似し、かつ私が二十年あまり前に始めた論証の延長線を構成していくものでしょう」ルキノ・ヴィスコンティ
10-18 23:24

おそらく『アンジェロの朝』ほどヴィスコンティの信仰心あるいはカトリック的なものへの親和性が表出している作品は他にない。彼がこれをあえて映画化しなかったという点も、映画を文学やオペラに比して二次的な表象芸術とみなしていた彼らしい判断だと思う。
10-18 23:20

RT @Situations01: 「僕の村の教会のどこが好きだったか、知ってるかい? 椅子の立てる音だよ。香部屋係が椅子を床に並べたり、積み重ねてあるのを外したりする時に音がするだろう。あの音と、ミサの間中、皆が教会の前の陽の当たる広場に出るまで待っているのも好きだった」ルキ…
10-18 23:16

私見では、石岡良治のような例外はあるが表象文化論でも東大で学んだ研究者には現実意図主義的なアプローチを取るタイプが非常に多かったように感じる。清水の研究はこういう観点から見ると非常に粗雑なモザイク画のような印象を与える。ある時点から私も彼をまったく評価できなくなった。
10-18 21:29

これはキャロルが立脚する現実意図主義とは対立する立場である。こちらは一次、二次資料の精緻な探査を前提に、著者のテクストに内在的な帰結以上の結論を提起しない。エックハルトが禅に近接しているからといって、安易に双方の「意図」を恣意的に接続させない。解釈の制限という厳格なルールがある。
10-18 21:21

『実在への殺到』は仮説意図主義的な言説であると判断できる。この立場は比較的自由度が高い仮説同士を横断的に接続させ合い、それらを折衷した統合的な解釈項を最終的に提起する。換言すれば、それは客観的な資料分析に基づく著者の「意図」から推測され得ること以上の言説を述べようとする。
10-18 21:15

ある命題においてその真偽を判断することは常に可能である。例えば、最近問題になっている「自殺したら負け」という発言は、該当する命題にどの解釈項を与えるかでその真偽を策定できる。「自殺」することにゲーム的な勝敗の規則を付与可能な体系を真理化した行為者の観念においてはこれは真である。
10-18 21:00

真理についての最終確定説などは存在しない──あるのはそれぞれの個別具体的解釈だけだとする一般論に対して、ノエル・キャロルが提示する「事実性の観点における真偽の判定は常に可能である」とする見解は非常に重要だ。
10-18 20:52

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