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01/09のツイートまとめ

afterfinitude01

私が惹かれたのは「天使Ⅱ」における、「閉じた瞼の隙間から雄蕊のような睫毛が反りかえっている」という極めて秀逸な審美的文彩。これはおそらく私が人物表現の中で最も植物的な繊細さを感じさせる「睫毛」(ロマン主義では髪は水流)に注目するためだろう。
01-09 18:26

須永朝彦『天使』所収の表題作を気分転換に読んでいて、どうやら著者が描いているのはギリシア神話の悪戯好きな恋神エロースであって、『天上位階論』にあるキリスト教的な天使ではないことに気付いた。柘榴を好んだり、喜怒哀楽を知らない無垢な微笑を浮かべる描写はなかなか興味深かった。
01-09 18:18

近藤氏の一連の補足を踏まえると、やはり両者には『メシア的時間』のベンスーサン的な時間意識に通底するものが流れている気がしてならない。ただ、未来に準拠する不確定な超越の到来への期待がある一方、エックハルト的な「永遠の一なる現在」に準拠する系譜もあることは指摘しておこうと思う。
01-09 13:52

RT @kakond3: そういえば一月号の現代思想で一つ書き忘れたことがあった。メイヤスーは亡霊的バディウ主義という形で、バディウの展開が引き起こす否定しきれない「可能なもの」として自らの立場を位置づける。そこで賭けられているもののひとつは、バディウが言うように、革命がおきて…
01-09 13:46

いずれにしても、多に空性を見出すバディウの仏教的親和性とは違い、メイヤスーには『啓示の哲学』の後期シェリングに近い、「奇跡を待ち望む」ような独特なメシアニズムが感じられてならない。しかもそれはユダヤ教を意識したレヴィナスや後期デリダとも異質な、何か不穏でもあるものなのだ...。
01-09 13:27

私はこれまで、「亡霊のジレンマ」はユダヤ的メシアニズムにアリストテレス的な潜勢態を接続させた復古形態であり、神学的には神義論的な意義しか持たないと考えてきたのだが、これは近藤論文にあるように事実論性の原理が要請する「来たるべき数学」として捉える観点もあるのだなと思う。
01-09 13:21

バディウが一と多のような古典的なペア概念を配置し、一からの「解放」を志向してマルチチュード(多)をそれ自体で承認するという流れには、コミュ二ズムとの対応も感じられる。一方、メイヤスーにはそうした政治的な含みは希薄で、純粋にXSF的な想像世界を擁護しているようにも見えてきた。
01-09 13:13

小説や映画で「未来の数学」を想像する機会は多々ある昨今だが、近藤論文を読んでいると、メイヤスーはそれらを歴史的な出来事に還元したくないのではないかと感じる。無論、新たな定理の到来は出来事として位置付けられるが、最終的にはそこから時間性も消滅していくのではないか。
01-09 13:07

近藤和敬「メイヤスーとバディウ」読了。初期メイヤスーの「新規性」論文における「小説家バディウ」への歩み寄り、とりわけ来たるべき新たな数学が有するであろう「巨大な全体」という視座が「亡霊のジレンマ」と結び付く議論は非常に興味深い。
01-09 13:01

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