† キリスト教神学 †

隣人愛

Streets of New Orleans

神の存在証明

私が歩いている。
前から彼女が歩いてくる。
私が彼女とすれ違い、そして二人は二度と顔を合わさないだろう。
この「通行人とのすれ違い」という、我々にいつでも生起している現象から、今回は神の存在証明を行いたい。

私が歩く、ということは、私が街の中を歩き回ることである。
街には他者が存在する。
他者とは、カトリック的に表現すれば、「隣人」である。
南極にいる外国人も、「隣人」である。

私が偶然出会った隣人とすれ違い、一瞬の時間で別れること、これはどのような因果律に基づいているのであろうか。
私がその街路を歩くためには、私がその街に存在していなければならない。
他方、彼女がその街路を歩くためには、彼女もやはりその街に存在していなければならない。
私が街で暮らすようになったのには、先祖から脈絡と続く土地性の問題がある。
だが、彼女が仮に外国人だった場合、彼女がこの街に来ているのは、無限に可能的な線の中の、奇跡的な一本の効果に依拠する。
ある人物と、別の人物が、通り過ぎるためには、彼らが背負うそれぞれの「体系」が、線によって、その瞬間に絡み合う必要性がある。
すれ違うという、何気ない「他者」との接近は、神が選択した「隣人」との「いたわり」を孕んでいる。
見ず知らずの通行人さえもが、「聖家族」の概念に帰属されるのは、「隣人」が「いたわり」の対象だからであり、そのすれ違いが、神の予定調和の一つだからである。
ある人物とすれ違い、その彼女の顔が、帰宅してどうしても想い出せない時、彼女の顔は記憶の砂浜で掻き消されてしまったわけではない。
そうではなくて、彼女の顔は、「神の御顔」に到達しているのである。
神学的にいえば、「すれ違う」という、単純な街路でよく見受けられる現象は、その一つ一つが、神の選択した「隣人」との「いたわり」を宿した、「隣人愛」の契機である。
だからこそ、隣人は、場所の遠近に関わり無く、「隣人愛」の対象なのである。
ニーチェは「遠い者への愛」という意味で、「遠人」という言葉を作り出したが、これは「隣人」の換言であって、本質的に同じ意味である。

何故、道で帽子を落とした婦人のために、私は自転車を止めて、彼女の帽子をすすんで拾い、それを渡すのか。
それは、この帽子を落としたのが、「神」としての婦人だからである。
「神」は「隣人」として到来する。
神への愛と、隣人への愛は、本質的に同じ意味であり、交換可能なのである。
帽子を落とした彼女は、私に「ありがとう」と、温かい笑顔で返した。
その感謝の言葉は、「聖家族」の範囲が、地球全土に及んでいることの証左である。
私が南仏を一人旅していた頃、言語の通じない異なる人種の女性が、やはり私に神の如き「隣人愛」を実践してくださった。
隣人は、傍にいるだけで、愛しい存在なのである。
仮に、地球上に、隣人が一人もいなくなったとせよ。
そこに「愛」があるであろうか?
そこに「隣人愛」があるであろうか?
愛は、隣人あってこその、愛である。
隣人愛が大きくなれば、それだけ「聖家族」の屋根は大きく、豊かになっていく。

街路で何気なく他者とすれ違う時、私たちは、そのたびごとに、神の存在証明を行っているのである。
それは、あの陽光に溢れた南仏でも、やはり起きたのだった。
私にとって、これを考える直接的契機は、やはりニームで出会った、「ダリア」という一人の若い女性とのコミュニケーションに拠るところが極めて大きい。
私たちは、通行人を「他人」や「他者」などという言葉で表現すべきではない。
私たちにとって、彼らこそが「神」であり、かつ「隣人」なのである。
愛されるべき、そして未だ愛に飢えて哀しんでおられる隣人のために、私たちは、絶えず「隣人愛を核にした信仰」を持たねばならない。
「隣人愛」から全てが始まるのであり、それが「神への愛」である。
イエスは、これと同じことを最大の教えとして語られたのである。
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