† キリスト教神学 †

洗礼と、それ以後

Gerhard Richter

前回も書きましたが、広報に掲載予定の記事のために、デッサンを書こうと思います。
依頼を受けてから書き始めるチャンスのような瞬間を探してきましたが、やはりブログで下書きを練る、というのがベストだと思いました。

どれくらいの信徒さんが御読みになられるのか、具体的によく解らないのですが、教会の予定表に新しい情報誌を発行する、というニュースがあるので、おそらくその中の記事の一つになるのでしょう。

テーマは、ミサの後に教わったように、「洗礼を受けて以後」あるいは、「これから」とでもいうべきもので、ある程度自由度のあるものだと思っています。

私が洗礼を受けた最大の理由は、私が「自分の居場所がない」ということで苦しんでいたからです。
私の高校はカトリックのマリア会に属しておりましたが、その頃はまだ「信仰」といったものを真面目に考えたことなどありませんでした。
けれども、卒業後、アルバイトをしながら創作をしてきて、結局、私は何も巧く書けない自分に気付いたのです。
2007年は、ある企業に尽力しました。
その企業で出会った上司に一人、女性の方がおり、彼女の何気ない一言が、私を教会へ導く決定的な影響になりました。
私は、彼女のことを書こうと今、決めました。
主が、そう今、私に促したように感じたからです。

その方は、松浦さんといい、私よりも年上の息子さんがおられる御母さんでした。
私は仕事の辛さから、つい弱音を吐き、その度ごとに彼女は「私がいるじゃないの」といってくださいました。
ある日、その方が休憩室でジュースをおごってくださったのです。
その時、私はお金を持ってきておりませんでした。
ですが、彼女は紙コップの出てきたばかりの、新しいものを私に渡してくださり、自分のものは「ゴミ箱」に捨てられていた、まだ中にジュースの残っているような汚いコップを拾い、そこに「少しだけ自分のものを」入れたのです。
私は、これに驚愕したことを覚えています。
今でも、はっきりとあの時の、平然とした、圧倒的な優しさを記憶に鮮明に残しています。
私はそれまで、他人は所詮、他人に過ぎない、と考えてきました。
今でも、心のどこかで、他者は冷たいものだ、というような気持ちがあることも認めます。
ですが、彼女はそういう行為を私に見せてくださった。
私が「教会へ行く」ということを彼女に相談していたからでしょうか。
私はあの方を通して、今でこそいえますが、イエス様が働かれたのだと信じております。

あの会社で、決定的な出会いをしたのかもしれません。
実際、私はそのことがあって、教会に行く勇気を貰ったのかもしれません。
家系に一人もカトリックの信徒のいなかった私にとって、教会へ行くことはとても不安で、緊張を伴うものだったのです。

私は、あの会社で正社員になろうと思っていました。
ですが、社長から、「パートタイマーでいてほしい」といわれていました。
正社員になるためには、きついハードルがあり、私はどうしても機械操作をうまくこなせなかったのです。
私の中で、勿論、「本」の世界は大切な居場所でした。
そして、下手なりに創作もしていました。
ですが、私が読んでいたのは小難しい哲学の本で、そこには救いはなかったのです。
作家にもなれない、正社員にもなれない、自分の「居場所がない」と絶望的になっていた、まさにその時に、松浦さんに、私は「教会」のことを相談できたのです。

2006年、つまり二年前は、私は「文学の内部を走れ、走り続けよ!」という、大江健三郎が若い頃にモットーにしていたものを信じて、創作していました。
ですが、うまくいきませんでした。
2007年は、文学から離れて、会社に属しました。
そこで松浦さんと出会い、教会へ通い始めました。
2008年、二十一歳の今、私はカトリック教会の仲間になっております。
ですが、私がしていることは、2006年と同じ、つまり「創作」なのです。
私は「言葉を綴ることは空しい」ということ、「福音書以上に素晴らしい本など存在しない」ということ、この二つを、特に最近感じています。
ですが、私は会社に属しておりませんし、社会参加していません。
私は、2006年の頃にはなかった、「信仰」を手に入れたことで、「創作」とうまく共鳴し、支え合えるのではないか、と今は信じているのです。
ですが、「創作」は、社会への「奉仕」ではなく、たとえ私が作家になったとしても、実際に職場で働いたほうが、よほど信徒として立派で、慎ましいのです。
ですから、私はカトリックの作家に対して、実は批判的でもあるのです。
何故、福音書以後に、まだ何か物語を書けるのか、と。

私は教会に通いつつ、しかし他方で創作をしています。
ですが、絶えず何か重苦しい罪悪感が押し寄せてきて、私をハローワークなどの就職支援施設へと運ばせるのです。
けれども、私はそこで何も自分に合った仕事を見つけ出せないのです。
何通も紹介状を書いて貰いましたが、心のどこかに、「本」のことがあるのです。
「本」というのは、例えば、デリダのことだったり、ライプニッツのことだったり、彼らのことを学んだ上で、何か書けるものがあるのではないか、という私の創作のことでもあります。
ですが、私は創作においても、実際は「敬虔ではない」作品ばかりを書いています。
今、私が書いている現在200枚の長編小説は、宛先も見えないまま、加筆を続けております。
それは福音書から遠ざかるものであり、「信仰のない貧しい本」だと思います。

私には、まだ何もカトリックの先輩の信徒さんがたに、御読みしていただけるようなものは書けないのです。
私は、「小説を書く」ということを、しかし続けてきました。
私の中で、「小説を書く」ということが、一体何なのか、全く解らないのです。
「名状し難い悲哀」を解放し、表現するためだとすれば、その時間を使って、「奉仕」し、「祈る」べきではないのでしょうか。
苦悩を描くのであれば、その苦悩を「書く」行為で克服するのではなく、「奉仕」と「祈り」によって、すなわち「信徒になる」ことによって、乗り越えていけばいいのではないでしょうか。
「書く」ことで、一体誰が救われるというのでしょう。
仮に、読書家の人に、自分の書いたものを読んでいただき、その方を一時的に満たしたとしても、それは、一時的な媚薬に過ぎません。
むしろ、その読者に「俺も作家になりたい」という意志を抱かせるのであれば、それは、新しい苦悩を作り出すことではないのでしょうか。
私は、大江健三郎から文学に本格的に入った者の一人なので、特にこの作家にそういいたいのです。

作家は、本当に必要なのでしょうか。
作家は、いわゆる「アイドル」のようなものなのではないでしょうか。
それは、自分の声が全米で大ヒットし、歌いたくもない歌を歌ってセールスを稼ぐ、市場原理的な歌手の世界と同じではないのでしょうか。
何故、わざわざ書くのでしょうか。
ボルヘスは、この問いで、いかなる答えも提示してくれません。
彼はそもそも、カトリックの信徒ではありませんでしたし、物語を愛していたのです。
カトリックであるモーリヤックの本を、少し読みましたが、退屈で、途中で止めてしまいました。
私は文学的な面白さという点で、ボルヘスが大好きです。
ただ、カトリックの作家を読みたいとは、どうしても思えないのです。
何故なら、絶対に福音書と比較してしまうからです。
神父さまが、一言でも、「皆さん、21世紀の信徒の皆さんは、作家になりましょう!」などといったでしょうか?
いいえ、神父さまは、教えをのべ伝え、愛を広げて孤独を癒していくことを、社会参加で実現することを望んでいるはずです。

モーリヤックは、社会参加したのでしょうか?
確かに彼はノーベル文学賞を受賞するほど、名高いカトリックの作家になりました。
ですが、何かがおかしいのです。
モーリヤックがどういうつもりで物語を書いていたのか詳しく知りませんが、「作家であること」と「敬虔であること」は両立し得ない、というのが私の正直な意見です。
特に、私のように、幼児洗礼ではなく、二十一歳で洗礼を受けた人間にとって、それはとてつもない謎です。
モーリヤックが書いている期間、一体、何人の人が彼の労働力を欲したでしょうか?
ただ、ペンを置けばいいだけなのに、彼は本来の「稲穂拾い」的な労働から「逃げ続けた」のです。
勿論、彼は書いていました。
ですが、私は信徒として、彼を評価できません。
彼がしたことは、一体何でしょうか?

例えば、二十一歳で作家になった青年が、過去にいたと仮定します。
彼が書いた本が、『痴愚礼賛』だったとしましょう。
彼は、作家としては、おそらく名声を確立するでしょう。
ですが、信徒でもあった場合は、事情が異なるのです。
信徒が現在、『痴愚礼賛』を書くことは、罪ではないのでしょうか。

別の若い作家は、『ヨブ記』という小説を書きました。
これは、旧約の『ヨブ記』を、よりいっそう劇的にしたものだと彼は考えています。
ですが、これも実は無意味なことです。
というのは、聖書は既に完全だからです。

もう一人の若い作家は、やはり私と同じように二十一歳で洗礼を受けました。
そして、その数年後に、『チャタレイ夫人の恋人』という本を書きました。
この本は問題的でしたが、問題的である全ての文学は往々にして後世から謳歌されるものです。
彼はやがて大作家になりました。
しかし、彼は「敬虔だった」でしょうか?
いいえ、彼は書く行為によって、罪を犯したのです。
それは、永久に本として残るほど、重い罪です。

作家は、「罪」から免れられません。
ただ、おそらく私と同じカトリックである、メディア学者のレジス・ドブレは、非常に奇妙な位置に立っております。
彼は、メディア論を綴るのですが、他方で、カトリック教会の現代の意義を重視しているのです。
彼は、いわばカトリック教会の現代性を、自分の学的領域で復権させ、救済し、別の新しい形式で、「布教」をしている、とすらいえるのではないでしょうか。
だとすれば、我々は、つまり、我々のように、二十歳を越えて洗礼を受け、尚且つ、「書く者」をも目指している人間は、「レジス・ドブレのように書く」ということにおいて、猶予の可能性があるのではないでしょうか。

つまり、新しい形式で、カトリック教会の意義を伝えることです。
新しい形式、とは、何でしょうか?
しかも、それを文学で行うなどということは、どれほど難しいことでしょう。

いずれにせよ、私は今、こうして広報の下書きをブログでアップしました。
結論として、私にはまだ何も書けることなどないのです。
ただ、何か大きな、甘美でもある優しい世界が、教会で私を包み込んでくださる、という嬉しさ、幸福さ、「愛」への確実な信仰、それだけがあるのです。
誰かを私も愛したい。
でも、愛するためには、すすんで、荒波に揉まれねばならない。
私は、信徒として失格なのです。
何故なら、「書く」と「読む」に執着するのですから。
でも、本当にそれがこの上なき、異常な悪とも思えません。
そもそも、「書く」ことは悪なのか?

シスターは、私が会社で平穏に働き、恋をして、結婚し、子供を作り、家族揃って教会へ来ることを願っておられると思います。
それこそが、真のカトリックです。
だとすれば、作家とは「知りすぎた」罰を受けるべき存在者ではないでしょうか。
書くことと、読むこと、そして、祈ること、これらは一つにならねばなりません。
でも、どうやって解決されるのでしょうか。
祈ることを書くことと等式で結んだカフカは、しかし信仰から遠のいたのではないのでしょうか。
ノーベル賞まで奪い取ったモーリヤックよりも、無名で、家族のために貧しく働いた一人の青年のために、私は祈ります。
彼らこそ、真の恵みを受けるに相応しいのですから。
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