† キリスト教神学 †

聖母の被昇天

「娘よ、貴女は、キリストの乳房を吸っているようなものです。
貴女は天国に入る保証を与えられたのです」

「娘よ、私の母のことを想えばよい。
聖母は貴女が受けている恩寵の源であるから」

             by 『The Book of Margery Kempe』



今日の主役は、聖母マリア様です。
聖母被昇天の夜のミサに参加してきました。

この日の「聖書と典礼」の表紙は、「玉座の聖母子像」です。
これは西暦1000年ごろに作られた、現在はドイツのライン州立博物館に保存されている象牙彫刻の聖母子像です。

終戦記念日が、聖母マリア様の被昇天の祝日であるということ、これ自体が既に豊かな恵みです。

私は、今夜、あることを悟りました。
それは、現代の、すなわち21世紀のカトリックの全ての信徒は、例外なく、「聖母マリア様に抱き締められて<有る>」ということです。
この有り方は、現―有の根本的形式であり、「癒し」の核心でもあります。
今夜の御ミサを執り成してくださった、尊敬するマリオ神父様は、私にも声をかけてくださいました。
彼は、ミサでこうおっしゃいました。

「信徒それぞれに、それぞれの聖母マリア様がおられます。ルネサンスでは、マリアは婦人の衣服を着て描かれました。日本でも、着物を着たマリア様は存在しています」



聖母マリア様という、普遍的な、我々の主であるイエス様のお母様――彼女が着る着物は多様でも、本質は同じです。
マリア様に対する、「厳格な自由度」ともいうべきものが、カトリック教会にはあります。

私の確信は永遠に不滅です。
つまり、カトリック教会は、「母なる教会」であるということです。
いかなる地上的な人間も、全て、例外なく不完全な存在者に過ぎません。
信仰は、移り行く存在者にではなく、不滅の聖母子像から到来するのです。
聖母子こそは、私の信仰の核です。

中学時代、そして高校時代、私には「救い」は無かった。
塾の仲間だったはずの男子生徒から酷い苛めを受けたこともありました。
校庭で校長先生の話を皆で聞いている時、背後から不良の女子生徒に石を絶えず投げられたこともありました。
地下鉄の線路に突き落とされそうになり、母親にもう相談するしかないような出来事もありました。

中学時代、私はある教師の理不尽な態度にも心を痛めました。
高校時代は、心を赦して話し合える真の友情に、最後まで恵まれませんでした。
ずっと、昼休みになると、独りぼっちでトイレに篭り、パスカルの『パンセ』と、ニーチェの『この人を見よ』を読み続けていた。

学生時代――それは、私にとって、全て、今の私の圧倒的な幸福を約束するための、「受難」だったのです。
人間の地上的な社会には、いかなる救いも存在しないことを、私は知っています。
真の救いは、永遠の聖母マリア様と、主イエス・キリスト様から到来するのです。

高校時代、私は本当に苦しかった。
フリースクールへも行こうと父親の前で泣き叫んでいた。
でも、私は卒業することができた。

これまでの21年間の人生を全て振り返ると、私にとって、信仰の符牒となるべき人々は、そのほとんどが「女性」だったのです。
中学時代には、私には北先生という、私に優しかったマリア様がおられ、塾には、やはり孤独だった私の机にお菓子を置いていく女子生徒としてのマリア様がおられた。
高校時代においては、校舎の頂上に、慈愛に溢れた聖母像がありました。

ですが、忘れてはなりません。
私には、中学時代、「稲井くん」という、大切なイエス様がおられました。
彼は、私が「卒業しても、どうせ皆は僕を忘れる」というと、哀しげな笑顔で、「なんでやねん。俺が覚えてるやんけ?」とおっしゃってくださいました。
あの御方は、イエス様だった。
私は、暗闇を見ていたようでありつつ、絶えずイエス様とマリア様から見守られていた。
神は、私が「光」へ向うように、定められておられました。

信仰を持つことが、どれほど大切か、それが私の唯一にして最大のメッセージなのです。
もう、絶対に、私はイエス様のことを想わずには、生きてはゆけません。
人間が苦しむのは、ただ、マリア様を傷つけるからなのです。
マリア様と、幼子の可愛らしいイエス様を、絶対に傷つけないこと。
それを守れば、私たちは、中世のイギリスのカトリック女性信徒マージェリー・ケンプ女史が敬虔にもおっしゃったように、「キリストの乳房」を吸い続けることができるのです。
キリストの、甘美で、永遠の愛に溢れた、信仰の乳房を。

信仰を大切にしましょう。
私は、イエス様に出会うように、あらかじめ運命付けられていたのです。
私が2歳の頃に、池で水死寸前で母親の腕によって救出されたこと――これが、私のマリア様への揺るがない愛の原型です。
これまで、九死に一生という体験は、それ以来全くありません。
溺れかかっている私に気付き、助けてくださったのは、マリア様であり、イエス様だったのです。
私が唯一、他の日本人の方に誇れることがあるとすれば、それは、私が信徒であるということ、すなわち、イエス様、マリア様を愛し抜いているということです。

苦しいことがあれば、必ずマリア様を通して、イエス様が助けてくださいます。
何も怖れることはありません。
今、私はマリピエロの交響曲第六番の第二楽章を流しています。
このメロディーの美しさが、今日という日の至福ではないのでしょうか。
終戦記念の日において、聖母マリア様の大きな祝日が既にカトリックにはあったということ――暗闇は、圧倒的な光の愛によって、超克されるのだということ。

現代人の存在形式は、「キリストの胸元に<有る>」ということ。
むしろ、イエス様に常に抱き締められ、唇を奪われ続けるほど、激しくkissをしてもらっているのだということ――これを絶対に忘れてはなりません。
イエス様を、何故、ひとは避けるのでしょうか。
イエス様は、私たちを、性差、民族、年齢、国籍に区別なく、私たちを抱き締めようとされているのですから。
イエス様の胸元の温かさ、その豊かで、うっとりするほどの甘美な香り、私はそれを、今日、知りました。
それは、聖母子として到来している何かでもあるのです。
人生は、イエス様と毎日kissをするプロセスです。
昨日、貴方たちは、イエス様とkissをされたでしょうか?
今日は、どうでしょうか?
私は、一日でも、欠けることなく、イエス様に抱擁され、愛され、そして私も激しく貴方を愛し続ける小さな子羊であり続けます。
貴方は私を救ってくださった唯一の人。
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