† 現象学  †

サロメとは、「誰ではない」か?

Felix Mas



創世記に拠れば、世界創造は「7日間」で行われたとされている。
神は安息日を自身に用意した。
この世界の創造における、重要な「7日間」という日数を、専門学的には「Hexahemeron」というが、グノーシス文献において一貫して重要な創造論である『世界の起源について』では、「Oxtahemeron」である。
このオクサヘメロンとは、世界創造が厳密には「8日間」であり、神が創造の「5日目」を「空白/パレルゴン」として、間隔化していたことを意味している。

今回は、我々にとって、最も重要な問いである「空白」について思索を展開する。
空白とは何であろうか?
例えば、「         」を、いかに翻訳可能であろうか?

我々はこれまで、Page Not Foundとは何か、という問いを先鋭化させてきた。
その帰結として、現在、「空白性」ともいうべき問題への解明の必要性が迫られている。
空白というのは、端的に意味の剥奪を意味している。
これは、しかし無限遡行に陥る表現であることに、読者はお気付きであろう。
つまり、空白とは、意味の剥奪を意味しては「ならない」のである。
何故なら、空白は「意味」の地平から彼方へと赴くからであり、あらゆる意味論を遮断するからである。
すなわち、空白性とは、現象学的にいえば、「意味のエポケー」である。

ある少年は、「   」の中に、「ライオン」と記し、彼の兄は、そこに「獅子」と漢字で記したとせよ。
この時、我々は一体、どのような空白性のさ中に立っているのであろうか?
「   」は、意味を産出する、皮下組織であり、そこにはあらゆる潜在的な書記素が秘められている。
「   」は、意味の潜在性であり、記号の工場地帯である。
空白性においては、「ライオン」も「神」も「Web」も全て、同一の事物として扱われる。

デリダは、他者の死を、「喪を担う=携える」と表記していた。
ハイデガーは、アウシュヴィッツでの死を、「死体の生産」と表現していた。
私は、「死」について考えることは、カトリックとしては不敬虔であると確信している。
そもそも、「空白」は、カトリック的には「愛」によって埋められるべきものであり、それが解決なのである。
それをあえて、私はいったん、( )に入れる必要性があると考えている。
カトリックにおいては、「死」は「復活」の概念の、一時的なプロセスに過ぎず、したがって、「冷たい死」などは存在しない。
死は「復活」、すなわち「昇天」であり、イエスの御元への旅路であり、愛の完結である。

ところで、いったん、このキリスト教における伝統的な意味を、空白にしてみよ。
すると、いわば「死」が、そのまま急迫して、我々に投げ出される。
ある神父の死も、ある青年の自死も、ある男の爆死も、全て同じ「死」である。
洗礼を受けた者のみが、「イエスと同じ天国へ笑顔で向う」という、キリスト教的な「意味/領土」性は完全に崩壊する。

「死」は、おそらくは定義不可能である。
死を正確に定義、かつ把捉した哲学者を私はこれまで、ただの一度も読んだことがない。
なるほど、前期ハイデガーは確かに現―有の根本的構造として、「死へ向う」を位置づけたが、それは前―キリスト教的であり、いわば宗教システムのプロトタイプに過ぎないのである。
レヴィナスは、「死」を経験論で語ることができないが故に、「死は存在しない」と規定した。

「死」に「意味」を与えることは無論可能である。
だが、「死」は、「意味」という領土を、むしろ華麗に、かろやかに交わすのである。
つまり、「死」とは、「領土性」に帰属不可能である点で、逃走線である。
意味論的な逃走線として、「定義不可能」「理解不可能」性の概念を越えた先に、「死」が、かろうじて、その顔の「影」のみを現前させるに過ぎない。
「死」とは、顔の隠されたるサロメである。

「死」を擬人化すると、それは必然的にサロメ的な「踊り子」にまで到達する。
死は、笑顔で踊り、甘美に、手当たり次第にダンスホールの人間たちに接吻する。
だが、死には「顔」がない。
死の「顔」はクリプト化/暗号化されている――これは、死の「意味」がけして現前することがないことを意味している。
「死」は乱舞し、我々の生命を愛撫し続けているが、けして「顔」を現さない。
この神秘的な踊り子は、「突然」性を持って、生活世界にピリオドを穿つ。
それはメロディーであるが、我々は、けしてその楽譜を目にすることが出来ない。

「死」と「空白性」には、いかなる連関があるだろうか?
A氏の死は、「   」で表記可能であろうか?
世界が、Aという存在者を喪失するということ、それを、表現として「   」というデクパージュ(切り抜き)によって表記可能であろうか?
否、ハイデガーが述べたように、死体とは、生産される点で、鞄と同じく製品である。
したがって、A氏の死は、「   」というデクパージュによっては表現不可能である。
彼の死は、ただ、「A死の死体が、有る」と表記可能である。
それは、「草原に石ころが落ちている」と、存在論的には同一である。
人間の死は、オントローギッシュに表現すれば、「石ころ」が、物質的に「砕け散る」ことである。

我々は今、レヴィナス的な「倫理」の概念、すなわち、「存在に先立つ存在者」という道徳的な概念を意図的に抹消している。
「死」とは何であるか?という、この問いかけに、何か違和感を抱くのは、「何であるか?」という問いが、既に「何々である」という領土性=意味発生性の操作へと帰属されているからである。
したがって、問いとしては、「死とは何ではないのか?」という、ある種の否定神学的な問いのスタイルを踏襲せねばならない。
「死」は「愛」であろうか?
否、そうではない。
「死」とは、「痛み」であろうか?
否、そうではない。
「死」とは、「洪水の如き涙」であろうか?
否、そうではない。
「死」とは、「~ではない」という点で、「意味」を遮断し、意味を削除しつつ疾走し続ける、ニューラルネットワークにおける「線」の暴走である。

後期ガタリに拠れば、我々が思考フレームとして重視しているニューラルネットワークを、彼は「機械状系統流」と表現している。
それは、「流れ」を持つ複数の逃走線の錯綜地帯であり、端的には、マトリックス状のニューラルネットワークである。
死に「意味」を与える、この精神の「意味賦与作用」とは、ネットワークに「細胞体/領土」を生起させ、そこに我々の存在論的形式を「付着」させる点で、意味論的には「父権構造」を有している。
死に「意味」を与えるのは、「父の法」である。
しかし、死は何によっても把捉されない。
それは、父から永久に逃走し続ける、サロメ的な線である。

ここで今、我々は、ある帰結にまで到達した。
それは、「   」も、「ライオン」も、同じく「表現」だという点である。
「   」とは、身体的にいえば、指でキーボードの「 「 」と、「 」 」と、「シフトキーを三度叩く」行為を意味している。
それは、「ライオン」と打つ行為と同じであり、この点で、「   」も「ライオン」も同じく「記号表現」である。
記号表現には、パースによれば、無限に豊かな「解釈項」を賦与できるのであり、この点でも、やはり「   」という表現は、空白性を正確には表明し切れていないという他ない。

それでは、「空白」とは何であろうか?
何故、グノーシス主義における世界創造論には、五日目が「空白」として存在しているのか?
五日目に、我々はいかなる「意味」も賦与できない。
これは換言すれば、我々が五日目にあらゆる「意味」を賦与可能であることをも意味している。
何故、五日目が抹消されているのか、という問いには何の意味も無い。
ただ、我々は、創造論と、「空白」という概念が、『世界の起源について』において、何らかの神秘的なリンクを形成していることを、目の当たりにしているのである。

何故、空白なのか?
空白とは、「無」ではない。
「無」とは「意味」であり、したがって、「有」である。
空白とは、「意味」からの「逃走」であり、常に流動し、疾駆し続けているサロメ的な逃走線なのだ。
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