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最近読んだ小説について、少し綴ろう。 もっとも、ブランショの場合は、小説というカテゴリーには当てはまらないのかもしれない。 彼は無論、小説以外でも活動の航跡を残しているが、彼がたとえ小説を書いたとしても、小説の外でのエクリチュールが、スタイルの面である種の「汚染」を見せていることが判る。 ブランショは本質的に評論家であり、哲学者である。 哲学者の書いた物語は、往々にして退屈でくだらない、無味乾燥なものだ。 これらも、キャッチコピーでは「哲学小説」などと謳われているが、実質的には、自分の概念なり、イデーを、純粋に論文として提示できない男が仕方なく書いたような印象を受けるのは事実である。 だが、そんなことはこの際、どうでもいい。 重要なことは、赤いほうの本で、ブランショの「写真」が記載されていることである。 これは信じられないことだが、よく考えれば、「残念でしたね、ブランショさん」といって、彼を憐れむ他無い。 というのは、ブランショは生涯、自身の「顔」をクリプト化し続けてきた作家だったからだ。 とはいえ、彼にはレヴィナス、バタイユなどとの深い交友関係がある。 ブランショの「顔」はただ、メディアに現出してこなかっただけであり、世界はブランショの顔をしっかりと暴露している。 ブランショは、ただの優男だったようだ。 写真では、やや微笑んでいるようにも見える。 ブランショの文学のテーマは、「顔の不在」「流浪」「書くことの不可能性」といった、極めて一般化された現代思想的なものである。 ブランショは、哲学の素材を、文学に並行移動させているだけに過ぎず、その点で、彼は卑怯なのだ。 ブランショの「顔」が、こうして公開されている以上、彼の「顔の不在」、すなわち「匿名性」といったテーマは、メディアを通して把捉されざるをえない。 というのは、ブランショの「顔の不在」というテーマそのものが、出版業界の意図と密通してきたからである。 ブランショとは、20世紀のメディアの擬人化なのだ。 私は、ブランショに対して、語れることなどない。 というのは、彼の書く小説は、どれもが私に激しいデジャ・ヴュを感じさせるものであり、どのテクストを取り出しても、全てが引用だからだ。 ブランショは、ボルヘスの兄弟である。 ブランショが、今でも注目されざるをえない決定的な理由は、おそらく平野啓一郎の活動の全域とリンクしている。 平野という日本の作家に対しては、私は非常に複雑な憧憬と、同時にある種の嫉妬と、そして憤慨をも覚えているが、彼のスタイル、そして彼の関心領域と、それを文学に転化する作法においては、評価せざるをえない。 現在、平野啓一郎ほど、重要な現代作家は存在しない、といっていいのではないか。 平野の作品に、『顔のない裸体たち』という、非常にブランショ的な中篇がある。 これを読んだのは二年前なので、既に古い記憶だが、想起すれば、やはりブランショ的なコンセプトを宿していたといえる。 つまり、「顔の不在」であり、その媒体が、メディア、より具体的にいえば、Web圏だということである。 現代のブランショが、仮に実質的に存在しうるとすれば、それはおそらく、こうしたブログのような、「顔のない」ユーザーの、「明かしえぬ共同体」が持つフィールドであろう。 平野がブランショ的であるということは、平野という作家自身が、現代思想(具体的には西欧思想であり、東洋思想に彼はおそらく眼中すらないが)のコンテクストを濃密に意識し続けていることの証左になるだろう。 平野はしかし、エリアーデ流の比較宗教学的な視座をも持っている。 彼が作家として評価しているのは、彼の『ディアローグ』、『モノローグ』を読んだ限り、まずもって、「ボルヘス」「エリアーデ」「三島由紀夫」だといえる。 特に、宗教論的なフレームとしては、彼はキリスト教を重視しつつも、あくまでキリスト教を多なる宗教の中の一つのシステムに過ぎない、と考えているようだ。 ブランショからテーマが平野に逃走したが、これについては下記でまた取り上げよう。 何故なら、それは必要なのだ。
私が注目したのは、平野と宗教学者との対談、大江健三郎との緊密な雰囲気に包まれた対談、そして彼のJ・L・ボルヘスについての講演会のプロトコルである。 以下、これらについて、私の感じたことを書き留めておく。 まず、平野自身は、私と同じくカトリック系の教育を受けてきたらしい。 父親が2歳で死に、彼も幼い頃からキリスト教には強い思いいれがあったという。 だが、彼は決定的に信仰に目覚める、という機会を持たなかったという。 しかし、彼が何らかの「救い」を希求しているのは事実であり、本人もさりげなく告白している。 ただし、平野は、「現代、教会というシステムは無効である」という考えを提示している。 これについては、その理由、来歴となるものが明記されていないので、何ともいえない。 ただし、平野が西欧思想の文脈から、キリスト教の終り、ある種のキリスト教のポスト・アジョルナメントを意識していることは明白であろう。 事実、現代フランス哲学の大家などと評されているナンシーは、「キリスト教の脱構築」などといいつつ、ユダヤ神秘主義的な思想における創造論を看取し始めている。 キリスト教と、その脱構築の必要性については、ポスト・フェミニズムの見地からも注目されねばならないことはいうまでもない。 しかし、平野はそれらについては言及していない。 宗教学者に気圧されているのであり、結局は、この品性の欠落した宗教学者の言葉に「はい」「ええ」などと頷いているだけであった。 キリスト教のシステムが終わっている、という場合、とりわけ平野のように、キリスト教の歴史、及びセクトについての進化史などを深く専門的に学んでいる論客においては、「信徒への配慮」というものが前提である。 もし仮に、システムの終焉について述べるのであれば、その来歴を具体化せねばならない。 平野は、おそらく「知的」にキリスト教を把捉している。 換言すれば、彼は「こころ」でイエスの愛にまで達していない。 だが、平野のスタイルは作家的であり、むしろ私の方が、おそらく現代世界から大きくズレているのであろう。 いずれにせよ、平野がキリスト教神学について今後も学んでいくことは予想される。 次に、大江との対談だが、これは我々にあまり収穫などない。 ただ、平野も大江も、「Web」と「他者性」の概念が、今後40年後の文学において重要な役割を果たすと述べている。 それだけのことなら、既に80年代からいわれているわけだが。 Webというコンセプトは、「仮想」や「意識」といった、フッサール的な命題ばかりを含むわけではない。 Webというテーマが持っている最も重要な概念は、「身体」である。 これについては、しかしここでは述べる必要がない。 最後に、ボルヘスについての彼の講演だ。 これについては、平野がボルヘスとWebを結合させて何かを思索しているということ、そして、ボルヘスの「顔」の問題に触れているということ、この二つの事実が重要である。 ライムンドゥス・ルルスが世界で最初に原−Googleの原案を提示し、異端視されたのが500年以上も前であるので、この問題はしかし古いわけでもある。 Webというのは、かつて現実に存在していたものである。
さて、最後に少し一休みしよう。 ゾラだ。 だが、ゾラのこの唯物論的な作品ほど、悪魔的で衝撃的な作品があるだろうか! この作品は、私がこれまで読んできたあらゆる文学の中で、最もエロティックである。 金原ひとみや、ロレンス、フィリップ・ロスなどの性愛への取り組みは、それぞれ手法が異なるが、どれも直接的かつ単線的であり、いわば読者に直通している。 が、本作は、デパートの誕生と、そこに入る「客」の購買欲を、宗教的なフレームでいう「エクスタシー」と連関させて書いている。 極めて特異かつ、天才的な傑作である。 この作品については、再考すべき命題がまだある。 デパートの社長である男が、ゾラの手によって、異端の魔術師のように描かれていることは極めて問題的だ。 これは現代世界の見事な縮図だが、唯物論的な象徴としての、つまり大衆消費社会のシンボルとしての「デパート」を、「女を食べる怪物」として描いており、しかもその頂点に一人の男を設定している。 中世でいえば、彼は女性信徒を誘惑し、複数の信徒と密通している異端の魔術師である。 それをゾラは、あくまで「表現」している。 つまり、舞台はあくまで「デパート」の中であるが、内容を飾る「表現」が、中世的なのだ。 このギャップの効果は絶大であり、2008年に読んできた文学の中では、最も異端的で恐るべき作品といえる。 私はこれまで、ゾラ、フローベール、バルザック、ユゴー、トーマス・マンなどといった、いわゆる「世界の文豪」を毛嫌いし、マイナーだが高度に知的で美しい作家を偏愛してきた。 だが、その読書の偏向は唾棄すべきものであった。 少なくとも、ゾラのこの作品は、魔的で、未だに私に謎を投げかけている。 COMMENT
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