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鈴村智久の研究室

表象文化論、美学の研究者鈴村智久です。哲学・思想ブログランキング総合2位。

01/19のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

そしてこれは以前『死と優美』最終章で考察したテーマとも関係するのですが、私はこの「絶対美」の究極的な起源は(神の負う)「傷」ではないかと考えています。いつかこの思弁的美学の問題については真摯に向き合わねばならない。
01-19 21:44

ヴェイユの思想に敬意を払って、現時点ではその非対称性を「美」と措定しておくことにします。この美は、デッソワーの美的範疇論のように美/醜の形式的な二項対立に還元不可能な、いかなる項とのカップリングをも徹底的に拒絶する「絶対美」としてのみ与えられます。
01-19 21:35

善悪の二項対立が東西のような区別とは本質的に異なるという事実は、絶対的実体において「対称性」を持つ二項と、はじめから対称性が崩壊している単一の項(いかなる二元論、三元論にも互換不可能な一元論的な絶対項)が存在するということではないのでしょうか。
01-19 21:17

仮に神がこの「瞬間しか」見ないのであれば、神はまさに万人を「善」においてのみ見るといえるでしょう。このような瞬間は、別の短篇「タデオ・イシドロ・クルスの生涯」でもはっきり言及されています。しかし、ここでは善悪の道徳的機能がまだ不問にされたままです。
01-19 21:09

この命題が真実であれば、神は善悪の形式的区別を持つが、思弁的には交換可能なものとしてフラットに扱うことになるのではないでしょうか。例えば、生涯を修道院で暮らした敬虔なシスターと、男から男へ渡り歩いた奔放な悪女は、ある瞬間において相互に自己の本質を対自的なものへ移行させうる。
01-19 21:09

私が洗礼を受ける以前に読んだ小説の中で、おそらく最も影響を受けているのはボルヘスの「神学者」という短篇です。この作品の論理学的命題は、異端(-A)と正統(+A)の区別は、神のもとではコインの表裏のように無分節的(∣A∣)であるというものです。
01-19 20:53

あらゆるオブジェクトにおいて思弁的統一が可能であるためには、統一それ自体に運動性を与える必要があります▶(∣A∣)ⁿなおかつ、この肯定的無限判断に自立的な反省規定(否定性)を与える必要があります▶(-∣A∣)ⁿこの両項の無媒介的反転(∣A∣)ⁿ⇔(-∣A∣)ⁿが「私は花である」の根拠です。
01-19 07:57

ワイヤーシュトラウスを緩用して代数記号で表現すると、私(+A)と花(-A)の各々の存在論的な境界が、無分節化する思弁的な絶対値(∣A∣)を探す必要があります。花だけでなく、鳥や樹木、バクテリアから素粒子まで、すべてのオブジェクトにおいて可能であるために。クリント《十大 no.2》(1907) https://t.co/nR3js8N98P
01-19 07:48

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