† 存在論 †

21世紀のハイデッガーは、キリスト教を何と心得るか?

Study for Adam by  ラファエロ

「Study for Adam」  by Raffaello Santi

「現‐有とは、無の内に投げ込まれて保たれていることを、意味する」

      ハイデガー『道標』「形而上学とは何であるか」



おそらく、この一語が、彼の思想を結集している。
ハイデガーは、生きていた時代が20世紀であったがゆえに、つまりフランシス・ベーコンが極端に頭部をデフォルメさせた禍々しい絵画を描かざるをえなかった時代であるがゆえに、その「深淵」に足を取られていた。

ハイデガーは同書で、「ex nihilo omne ens qua ens fit(無から、全ての有るものは生ずる)」と引用し、これをキリスト教的な「無」の規定として位置づけた上で、

「我々は無に出会いうるのでなければならない」



と断言している。
ハイデガーの全集版の作品を、この一年間を通じて熟読してきたが、そこで得られる絵画的なイメージは、初期のオディロン・ルドンの版画のように暗澹たるものだった。
ハイデガーの思想は、薄暗い森などというレヴェルではなく、むしろ生きて出て来れない底無しの谷のようなものである。
破滅的な暗さを狙って書いているのではなく、むしろ重層的に真摯に闇と対峙しているがゆえに、いっそう読者は根深いニヒリズムを彼と吸わねばならなくなるのだ。
ハイデガーを読むためには、我々は十分にキリスト者でなければならない。
つまり、「信仰」という拠り所があって初めて、彼の思想の高度な意義も理解できるのである。

相変わらず、といえばいいのか、例えば『野の道での会話』所収の「アンキバシエー」では、「技術」「無化」といったテーマが湧出している。
「無化」というテーマでは、やはり全集版の『ブレーメン講演、フライブルク講演』の「原子爆弾について」の彼の考え方がいっそう強烈であるが、共通しているのは、これらが「技術」の暗黒面として把捉されている点である。
原子爆弾は、ハイデガーの祖国ドイツと同盟国だった当時の日本が受けた有史以来の凄惨な事態である。
この問題の根源に潜んでいるのは、「技術」である。
それは、「ロシアの収容所での対話」で、「悪」と「悪意あるもの」について彼が語っていたことを鑑みると、まぎれもなく「技術が生み出す悪」へのハイデガーの配慮、不安なのだ。
第二次大戦以後のハイデガーの思索は、若き日のドゥンス・スコトゥス論からキリスト教神学の起源としてのseinの探求という一連のプロセスを越えて、いっそう暗い「無」へと立ち向かう。
『野の道での会話』という全集版の著作は、実は最近になって刊行された、彼の重要な作品で、『有と時』、『哲学への寄与』、『ヘルダーリンの詩作の解明』と並んで重要である。

「アンキバシエー」というのは、ヘラクレイトスの使っていたハイデガーが好きだった術語の一つだ。
意味は、「近くへ歩んでいく」「近さの中に入っていく」というようなものだ。
ハイデガーは、「塔」の中で、塔の番人と教師が、野の道へ向かいながら、塔を眺めて、「前よりも塔の本質がよく見える」と述べている。
これは極めて示唆深いテクストではないか。
塔の番人は、塔で長く暮らしてきた。
だからこそ、彼は塔について知り尽くしていると自負できるだろうが、実は自分の安らっている居場所の本質は、その居場所から離散して初めて、見えてくるものなのである。
したがって、

・塔から野原を眺めるか
・野原から塔を眺めるか

という二つの視点が少なくとも浮上してくる。
塔の住人にとっては、むしろ「野原」へ向かうことこそが重要だということを、ハイデガーは力説する。
だが、野原にいる者には、塔からその地平を一度眺める事も、或いは必要ではないのだろうか。

アンキバシエーという概念は、近さの中へ入ってゆく、ということである。
すると、遠さとは何だろうか?
遠さとは、近さを奪取することなのだが、例えば、TVを閲覧している人間が、自分がかけている眼鏡を通して見ていることを忘れる(実際は、眼鏡はTVより遠い、とフッサールなら論じているが)ということが、この問題の核心でもある。
我々は、遠いものを見過ぎているがゆえに、あまりにも近くにある本質を喪失している。
それがハイデガーにとっては「sein」であり、そして基礎存在論的にいえば、「seinの忘却」も、現‐有の存在範疇の一つである。

このような思索は、若い我々にとってはなるほど、刺激的で面白いものである。
だが、それだけではやはり不毛な学であって、ハイデガーは「科学」に対するコンプレックスを著作の各地で散見させている。
ハイデガーにとって、実践的で実りある科学的な学は、哲学などというおよそ非実学的なものに対する脅威として映ったのだ。
だからこそ、ハイデガーは何度も「テクネー」について思索し続けているのでもあるが。

ハイデガーの本は、非実学的であるが、世界の見方を更新させる。
しかしながら、ハイデガーの思想「のみを」追及することは、我々にはできないのだ。
例えば、ハイデガーは「世界の起源」について、哲学者らしく思考を及ばせているが、それらが明確な形式で読者に与えられるというようなことはない。
創世記の場合は、創世後の世界が、オートポイエーシスの視点でどのように進化していくのかが明記されている。
観察者(神)は、世界に直接関与する。
例えば、「洪水」や「ソドムの滅び」はその典型的な例だ。
楽園に、ケルビムという神に近しい者がいるという事実も、システム理論的な謎を呼ぶ。
しかし、創世記はそれでも、やはり「創世後の世界」をしか記述していないのだ。
「創世前」について記されていない。
「創世前」を記した書物としては、グノーシス文献の『この世の起源について』や、『シェームの釈義』、『ヨハネのアポクリュフォン』などがあげられるだろう。
これらは幻視的な形象の世界である。
例えば、『シェームの釈義』では、世界創造が、明らかに男女の愛の営みによる、「胎児」の発生と象徴的に等値されているのが判る。(参照『ナグ・ハマディ文書』岩波書店)
確かに、世界の起源、宇宙の起源を、生命が新しく生まれる「精子と卵子の結合」によってイメージされていることは、興味深い事実である。

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンはどうかというと、彼女は創世前に、「聖愛」が存在したと述べている。
それはシェームの釈義流の創世観ではなく、キリスト教における清楚で敬虔なカリタスとしてである。
世界が創造される前に何があったか? という問いには、ハイデガーなら、「有る、ということがそもそも生起していなかった」と答えるだろうが、これを批判するシステムとして、キリスト教はヨハネによる福音書の「神は愛である」を引用することも可能であろう。
つまり、創世前には、「世界」におよそ存在している全てのものが、既にあったのである。
それが無なのだ。
無は、「有る」ということを既に可能的に秘めているので、哲学的には「有」と同一である。
この「有」は、キリスト教神学的にいえば「神」であり、そしてヨハネは「神」と「愛」を等値したのであるから、世界の根源は、やはり「愛」において他にはないという帰結に達する。
世界に「愛」を、その根源として設置する時、「愛とは何か?」という問いが生起する。
しかし、「愛」とは、キリストの生が示されたように、本質的に「自己犠牲」的なものであり、「隣人」のために存在しているわけである。
モーゼの十戒に、父母を敬うことや、殺人の禁止などが定められ、新しい掟として、イエスが「愛し合う」ことを伝えたことも、世界創世前から、「隣人愛」が究極の原理として作動してきたからである。

ひとは、愛をよく知らない。
だからこそ、ひとは愛を希求する。
愛は哲学的に厳密に規定されてはならないものであって、それは端的に感性的にも把捉されてはならない。
愛は、意志である。
相手のことが憎い、だから愛せない、と人がいう時、それはその相手を感性的に憎んでいることを意味する。
この段階では、未だキリスト教は開始されていない。
キリスト教が始まるのは、このような、なかなか愛するのに困難な人物に直面した時に、「意志」として愛せるか、という問題を超克した時である。
愛が意志であるならば、感性的に忌々しく感じても、意志は依然として「愛」のさ中に立つ。
意志は、感情を止揚する。
愛が常に行動で示されるべきなのは、それが隣人との直接のコミュニケーションに基づいているからである。
愛は、実践的なものである。
そして、そのためには、感情という問題を越える必要があるわけだ。
感情的に愛している限り、ひとは真に愛しているとはいえない。
感情でひとを憎むことがある限り。

世界の起源に「愛」を設定することは、カトリック教会の伝統である。
愛は不滅であり、それは把捉するのが困難であるが、にも関わらず我々に憧れを生起せしめ、同時にそれを与えた相手の笑顔を見て、幸せに感じられるものである。
愛には何か神学的なメッセージが常に存在しているが、それは、その愛が、「感謝」や「挨拶」や「気遣い」といった形式で姿を現すからであり、それらは、全て世界の起源である「愛」から発出しているのである。
人間の求めているものは、ハイデガーであれ、ニーチェであれ、ヘルダーリンであれ、「愛」であった。
「愛」を求めている時、ひとはキリスト教の扉の前に立っている。
そして、洗礼を受けることで、我々はイエスさまとの永遠の結びつきの関係に入り、いわば男女の性差を越えて、イエスさまの「花嫁」となる。
これを忘却すると、ひとは愛から離散してしまう。
愛は、その起源からして、イエスさまあってこその愛である。
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~ Comment ~

No title

 いつも興味深く拝見させていただいております。
 (残念ながら私はクリスチャンではないのですが)同学年であり、また私が哲学に多少の興味を抱いていることも相まって、思索に富んだ貴兄のブログには、常に感嘆の思いで溜息をつく思いです。
 さて、今回は貴兄の解釈を伺いたいと思い、僭越ながらコメントをさせていただく次第です。(もし興味のない事柄でしたら、放置しておいてくださって一向構いません)貴兄はハイデガーのいわゆるナチス協賛事件がハイデガー自身に及ぼした影響というのは、どのように考えておられるのでしょうか? 貴兄の思う、ハイデガーにとっての戦争とはなんだったのか、という意見が是非とも窺いたいのです。また、ナチス事件以後のハイデガーと、ナチス事件以前のハイデガーでは、どちらがよりハイデガーの深淵が描き出されているという風に思われますか? 質問ばかりで申し訳ありません。よければ、神学的な戦争の意味を交えて、お答えいただければ非常に参考になります。
 それでは。God bless you.
[2008/10/17 03:05]  てるみぬす  URL  [ 編集 ]

てるみぬす様へ

極めて重要な質問を与えてくださり、心から感謝いたします。
ブログの利点は、多人数が同時参加できる点にある、その交流が可能な点にこそあると思いますので、ここでこうして往信できることが非常に嬉しく刺激的です。
質問の内容が、極めて私にとって重要で、考察せねばならない点を深く持っているために、どうしてもここでは返信することができません。
貴方への返信として、新しくページを作成し、掲載いたしますので、それを私なりの考え、返信と想っていただければ幸いです。

どうか、これからも宜しく御願いいたします。

v-254

[2008/10/18 20:54]  Dilectio proximi  URL  [ 編集 ]















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